時代が進むにつれ、小麦の消費が拡大していく。そこで小麦を粉にして売ることを専門に職業とする人たちが現れました。彼らは、奴隷や家畜を使って普通よりも大きな石のうすで粉をひき、出来た粉をみんなに売るようになる。 ギリシャの人々によって、水車を使った粉ひきの工夫がされました。 ローマの人々もこの水車による粉ひきを引き継いで拡大させて行きます。また水力の利用できない環境であるイギリスやオランダでは同じ原理から風車を使った粉ひきが行われるようになりました。

トウモロコシ、麦や米など、人類の主食である穀物を調理するにあたっては、そのまま食する粒食と、いったん粉末に粉砕してからパンなどの食品に加工する粉食文化がある。世界の大部分は粉食文化圏に属し、臼は粉食において必須の道具であり、その歴史も古代文明にさかのぼる。

カテゴリー「麺」として始めたが・・・1回目を書いてから2週間経ってしまった。世の中に面白いことが次々起こるのが面白く・・・「眺めせしまに」と弁解する。

このブログは基本的に おじさんのものに対する考え方を 自身の子供に伝える道具と思って書いている。その為 時事発生することへの技術的見方とか、経験者としての思い、考え方を伝えることを主眼にしている。従って 他人様のアクセス頂けるようにテーマを絞り、意図的に書いていく方針は元々ない。

よってテーマを固定した場合は縛られるような感覚であるが、おじさん麵食が好きなので、最上流から順次思いつくままに書き連ねようと思う。 我儘 ジジイで申し訳ない。

石臼の形式

紀元前600年頃 古代オリエント時代になると、ロータリーカーンという回転石臼が考え出されます。上下2段の石を回転させることで、より粒の細かい小麦粉ができるようになる。ロータリーカーンの原理は、ヨーロッパや中国にも伝わり、次第に規模も大きくなり、水車や風車が使われるようになりました。

ロータリーカーン

18世紀にイギリスで産業革命が起こり、ワットが蒸気機関を発明すると、製粉技術は大きく変化し大規模な製粉工場が登場します。

19世紀には、現在の製粉工場でも使用されているロール機も生まれ、ますます品質の良い小麦粉が作られるようになります。

石臼伝来

日本最初の石臼となると、大陸から伝来したことは確かなようですが、時期などの詳細は不明です。石臼の「日本書紀」には「推古天皇の十八年(610)春三月、高句麗王、僧二人を献じ、名を曇徴(どんんちょう)、はじめて碾磑(てんがい)を造る、けだし碾磑を造るは、このときにはじまるなり」とあります。「碾」とはテン、碾(ヒ)く、またウスなどと読みますが、中国ではその昔、丸い石臼のことを碾磑と呼んでいました。正確には上臼が「碾」で、下臼が「磑」、そして上下一対の石臼が碾磑となります。

日本書紀に登場する石臼を日本最古と認定したいところですが、残念ながらこの記述を裏付ける証拠が存在しません。また奈良の東大寺や唐招提寺にも石臼らしき遺物があるとの資料が存在しますが、日本書紀同様、その存在を裏付ける確実な証拠がないため、断定できません。そしてその後、碾磑に関する記録はぱたっと無くなります。当時の食生活は米麦が主食であったので、石臼は必要なく、わずかに貴人にささげる小麦粉のお菓子などがあったとしても、それ程度の製粉は、搗き臼で十分に賄えた、よって碾磑は普及せずに忘れ去られたのであろうと 推測されています。

子供の頃 伝馬船と呼ばれる5m程の手漕ぎの和船のアンカーとして、石臼上部の穀物投入穴にロープを通して利用されていました。おじさんが小さい頃に 多くの家では「道具」ではなくなったようです。それでも近所の家では石臼で きな粉を始め色々なものをすり潰して粉にしていました。おじさん家(ち)にもありましたがいつか見なくなりました。ほとんどが 昭和の半ばに消えてしまいました。

横の穴は廻し手入れ 猫さんの下に穀物投入穴がある

投稿者

おじさん

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です