おじさんが子供の頃 周りには鍵っ子(正確に言うと おじさんの時代は鍵をもたない鍵っ子)が溢れていた。どちらかと言うと共稼ぎが常識であり、何軒かに一軒 ばあ様じい様が居た。なお 寿命が短いためか 今ほど年寄りは多くなかった。

従ってこの辺りが普通と思って生きていた。昼 親がいないのは当たり前。どこかしこの大人が「ぼく どこの子やな」と言って 大歓迎とまではいかないが、作るのに失敗した饅頭あるいは玉子ボーロなどを ご馳走してくれた。考えて見れば濃密な人間関係だったと思う。また父達の付き合いが良かったのだろうと思う。今 思っても感謝である。但し 悪さしたら生きていけない雰囲気であった。

魚屋さんで魚の頭を貰い、炭などを掴む鉄はさみ(今のトング)とたこ糸,釘を持て海に向かう。堤防の捨て石まで下りたら、魚の頭に釘を刺し込み、目の部分にタコ糸を通し 石の隙間に入れる。カニが出て来て食べだすと静かに糸を引き寄せ 鉄はさみで届く範囲に来たらガッーと掴む。カニを入れるのはレジ袋のようなおしゃれなものはありません 小さめの茶色い麻袋 今は無いですよね。カニを持って帰ると ばあ様(母の母です 念のため)が茹でて食べさせてくれました。

ザリガニ捕りも同じようにしましたが、食べないので ほとんどカニ捕りでした。

池田勇人 所得倍増

数年経ち 実のばあ様 そのあと世話してくれた近所のばあ様も亡くなる。家にテレビ,冷蔵庫,洗濯機などが入って来る。近所の家々も建て替えられ 我が家も母屋が建替えられた。大きくなるにつれどんどん変化が起きる。「もはや戦後ではない」と言った池田勇人首相 国民所得倍増の時代である。

我が家の近所200軒はどあったが 専業農家が1軒 風呂屋お菓子屋八百屋 他商店店が15軒 あとは塩田その他工場勤務者であった。

近所の兄ちゃんが京大に入った・・・どこどこの子 ヤクザ屋さんのチンピラしてるとか色々な事件あるいは巷の噂などが大人の会話の中に聞こえた。

そんな日々が過ぎていくと「中学から皆高校」となっていきました。中卒で就職するのはブイブイ云わしていたお兄ちゃんたちだけになりました。

おじさんも中学, 高校に進み大学に進学した。その頃 小学校の同級生で大学まで進んだのはクラス40人で7人 短大高専卒が3人。高卒で就職したのが27人 中卒で就職したのは2人と記憶している。なお高卒とならず1名「寿」退学者がいたため数字が合わない。

バブル時代

高校生の頃からがバブル時代である。バブルが進行する過程で、多くのことが変わっていった。

おじさん 我が家は近所を見ても「普通(中流)」と思いながら育った。しかし大学に進学後、意識および経済状況に変化が生じた。住所はもとより違った環境で育っているので「普通」が違う。

また親が中学生の頃から不動産業を始めた。田舎とはいえバブル時代の不動産屋、親の所得が急激に変わったためと思っている。無論おじさんの父なので 楽しく過ごすことが主眼で、アパートその他資産的不動産を残すことはなかった。家を直したり 建て替えたり、日々飲み歩くなど楽しそうであった。

一歩外れば 地獄 

おじさんがバブル中盤の30歳の頃まで 学歴,社会階層所得額にかかわらず、多くは「中流」と考えていたかと思う。バブル時代を通じて 豊かな人は自分の豊かさを よくわかっていなかった。周囲を見渡し相対的に「中流の上」「中流の下」と判断していたと思う。

社会保障も十分とは言えない時代 生活維持のため労働する。持っている金融資産も十分とは言えない状況で 病気事故など職を失えば 「即 貧乏」という世界であったと思う。

それ故 おじさん みんながそれなりに幸せで 中流と考えていたと思う。

現在「失われた20年」以降中流意識を持つ人が減ったという。おじさんは 皆さんがそこそこ資産を持って来たから 出来た感覚と思っています。現実は 今も一歩間違えれば貧乏が 口を開けて待っている。

バブル崩壊時代 資産があっても落ちていくのが どれほど多かったのか・・・父の職業柄いろいろ見せていただきました・・・上り坂も.下り坂も・・・それまでの常識が崩れるのを見せていただきました。今回もそれに近い状況なので心配です。

その中でおじさんズーと中流意識のままです。まあお金もありませんが また使う場所も目的もありませんので それなりに暮らせます。年金も夫婦でモデル受給額並だし、このまま 平々凡々な一生で送れたらと願うばかりです。

よく ばあ様から聞いた噺 「どこへ行っても電柱と川はある。貧乏とゲンシャ(分限者のなまり お金持ち)はあるもんだ。」 

投稿者

おじさん

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です