夏が来れば、そうめんの登場回数が増える。子供の頃は「ひやむぎ」と言う少し長めで太いものがあったがあまり近日は見ない。最近はうどんの細麺が多く見かけるのも、見なくなった原因かと思う。そう言えば徳島の「半田そうめん」がほぼ「ひやむぎ」と長さが違うだけで同等と思える。日本農林規格JAS規格には太さによる区分が乗せられている。乾麺類品質表示基準で以下のように太さによる分類がされている。

干しそうめん : 長径1.3mm未満(手延べの場合は長径1.7mm未満)

干しひやむぎ : 長径1.3mm以上1.7mm未満(手延べの場合は長径1.7mm未満)

干しうどん : 長径1.7mm以上(手延べの場合も長径1.7mm以上)

今はどうかは知らないが冷や麦にはピンク・緑などが数本ずつ添加されていたので、子供の頃 色付きを奪い合うようにしていたことが懐かしく思い出す。後年 愛媛で「五色そうめん」と出会い その出会いが嬉しかったことを思い出す。

歴史

そうめんの初めは「三輪そうめん」と思われる。奈良盆地の冬の低温多湿環境が始めとされる。それが伝わったのが 播州竜野「播州そうめん 揖保乃糸」となる。次に伝わるのが香川県小豆島の「島の光」となる。この辺りまでが江戸時代までに確立したと考えている。

小豆島のそうめんは九州島原に伝わる。これはキリシタン弾圧に伴い、人口激減に対して小豆島から 多くの島民が移住して「島原そうめん」が成立されたとされる。

秋田「稲庭うどん」はそうめんと基本的に製法が同じであり、北前船による蝦夷地から大阪への昆布などの運送があり、途中の播州・小豆島から分派していったとおじさんは考えている。

先に書いた徳島の半田そうめんは 昭和になっての個人の起業による成立とみられる。現在は3社ほどあるらしい。

石臼の出現

おじさんは原料の加工にこだわりがある。食の歴史・進化を考えると 麺の成立には小麦を粉にしていくことが 必ず通らなければいけない道である。粉食(小麦)に加工する道具は時代と地域で異なる。

小麦粉をつくる最初の道具はサドルストーンと呼ばれる平らな石である。平たい石の上に小麦を並べ、上から別の石を載せて前後に動かしてつぶしていた。その次が「ひきうす」となる。何千年もかけて挽き臼の改良を続け、ふたつの石の円盤の間に小麦をはさみ、上の石を回転させる「石臼」が現れた。

おじさん達も子供の頃 田舎の農家であったので石臼があった。大麦を軽く焙煎し、石臼で挽いてはったい粉。また大豆からはきな粉と 多種多彩なものが作られていった。抹茶もTV CMなどで石臼が何十台も据え付けられ作られている風景を見ることが出来る。現在の抹茶用の石臼は究極の道具になったと思います。

美味しいものを食べたいという気持ちは、大昔も今も変わることはありません。美味しく食べるためには、色々な工夫が必要です。 大昔の人は、小麦を平らな石の上にのせて、石でコツコツ叩いたり、潰したり、すって 粉にするサドルストーンを工夫をしました。その時使った道具は、世界中にある大昔の遺跡から発見されています。こうして粉にした小麦に、水を加えてよく練り、火の中に入れてあるいは熱く熱した石の上にそれをのせて、良く焼いてパンとして食べていました。そしてその次が そうめん、うどんなど麺類誕生を見ることになる。

美味しい麺を食べるには粉の粒度調整がなされていなければ、食べる箇所・嚙む位置で食感が異なってしまう。パンであれば焼かれる過程で下に流れ、下面が硬めに焼かれるので粒度調整の影響は少ない。この辺りとローマにおける工業的生産発生などが 何千年もかけて挽き臼の改良を続けられた原因と思う。近年では胚芽を除き、より口触りが良く白いパンなどを作る為、生産技術は粋を極める。

日本での麦の生産は 弥生時代の中期頃には、水田耕作とともに麦類が畑作生産されていたとされています。小麦を重湯(おもゆ)のようにして食べていたようです。その後 お粥や、粉にして平焼きにして食べるようになり、紀元前2,000年頃には今のパンに似た食べ物を作るようになりました。

うどん、そうめん、きしめんにあたる麺は中国から伝えられたものです。室町時代になると、おもに禅僧の点心(今でいうおやつ)として食べられていたようです。その後、日本の風土や嗜好に合うよう工夫されながら、日本独特の麺に育ってきました。

そうめんについては おじさんの歴史観に基づいて書いた。ところが どこでもある話 うどんの本場は博多と福岡の方は言い、いやいや伝えた弘法大師の故郷の讃岐が本場と ついて行くのに手間が掛かる。おじさんは ごぼう天の乗った博多うどんも美味しく、ちくわ天の乗った讃岐うどんも美味しい。また埼玉・群馬当たりの途中で半乾燥させるようなうどんも美味しい。もちろん名古屋のきしめんも・・・只の食いしん坊であるので仕方ない。

次回はもう少し 石臼の発展についてまとめたいと思う。ローマ皇帝は市民にパンと今も残るコロッセオで娯楽を与えないとスグに弾劾・追放された。それゆえローマ時代は大量製粉の求められた時代でもあった。食いしん坊から歴史を探るのも一興と思いつつ始める。

投稿者

おじさん

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