SMAPの「世界に一つだけの花」 の一節 ナンバーワンにならなくていい もともと特別なオンリーワン・・・・和製英語とは思うが響きが良く納得できる内容である・・・

掉さすのもと思うが・・・最近の持続化給付金などでの若者のモラルハザードの変化を見る時、今一度考え直すべき言葉と思えて来た。

現状のままでは 甘やかされて育てることに通じるじゃないかとの思いがある。

https://www.youtube.com/watch?v=oIiNk-1FK64

谷亮子

旧姓 田村亮子 日本女子柔道の歴史の中で輝く方である。

彼女の言葉で「ずっと単なるナンバーワンだったのが、やっとオンリーワンになれた。」と言ったことがある。

10年かかって達成した偉業、10年目にして初めて言えた言葉が「オンリーワン」である。

世界の舞台で絶えずナンバーワンでいつ続けている田村選手、そのプレッシャーは凡人のおじさんなどには計り知れない。

小さな身体いっぱいに闘志をみなぎらせて戦う彼女の姿に何度となく感動したことか。

オンリーワン

「オンリーワン」という言葉、昨今の日本の教育現場では濫用されているのかもと思っている。

行き過ぎた平等主義の反省から、やたらと個性が尊重され過ぎるようになったのではないかと思う。

また受験競争の過熱の反省から、競争が敬遠されるようになり、運動会のかけっこでも、みんなで手をつないで仲良く同時にゴールするなどという光景を一時期見た。

そして次に出てきた言葉が「オンリーワンの教育」である。

人には誰にでも、その人にしかない才能を持っている。その才能を開花させることで、オンリーワンになろうというのである。

これ 行過ぎた個性の尊重のではないかと思う。

「個性を尊重すること=人と違うことをよしとすること」のように思われているようだが、果たして本当にそうなのか。

他人と同じではなぜいけないのか。人としては 同じところもあるし、違うところもある。

人の持つすべてで、人間が個性的な存在へと区別していくだけである。

行過ぎた個性の尊重は 子どもたちを戸惑わせるだけであり、とてつもないプレッシャーを与えているということに気付くべきと思う。

伝統文化におけるオンリーワン

日本の芸道における技芸の習得のプロセスとして「守・破・離」というものがある。

おじさんの知る限り 多くの落語家は 師匠から師匠が習った通り 噺をけいこされる。

あるいは師匠の技芸を徹底的に真似をすることによって、技芸を体得する。

繰り返して体得できたら、今度は師匠の教えを破って、自分なりの技芸を披露しようと試みる。

なかなか思うように出来ないが、自分だけの技芸を築き上げ、師匠の技芸を離れて境地に達していく。

これが「守・破・離」である。

ここで「離」という境地に達して初めて「オンリーワン」になれるのである。

よく考えれば この間に師匠が亡くなり「破」の途中で 自然に・・・と言うのもある。

噺家の襲名などを見ていると理解できる。 

オンリーワンのルーツ

「オンリーワン」という言葉には 大概的には2つのルーツがある。

「人間は生まれながらにして、他の誰とも違う 唯一の存在である」という自然起源。 

もう一つはスポーツ,芸 などの「個人の境地」の域に達し実現される「オンリーワン」である。

この意味での「オンリーワン」は、個人の才能の上に 更なる努力が必要である。また努力したところで必ずなれるものでもない。人間起源と言うべきものである。

自然起源でのオンリーワンであることは自覚するとともに、自分以外の人たちも同様にオンリーワンなのだと お互いに尊重しあえる関係(リスペクト)を築くことの大切さを教えるべきとは思う。

Not only you but also I am wrong.・・・not only but alsoである。「あなただけじゃなく 私も悪かった」というお互いの尊重である。 

次に 人間起源と言うべき意味での「オンリーワン」になるための努力と忍耐を、たとえば谷選手の例などを取り上げて教えるべきと思う。

大変なことだから 素晴らしく価値あるものであることも同時に伝えるべきである。

たった一度の人生 命を燃やし尽くして 生きていこうと、子どもたちに声を掛けたい。

おじさん お互い密度の高い人生を送ることができることを願っている。

投稿者

おじさん

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