現在 近所で公図校正の調査が行われている。昨日 おじさんも境界についての問い合わせおよび確認があり、何かと慌ただしかった。その際 立ち会う地元自治会関係者と 「ここに水路があったが・・・今は・・・どうなっているの」などいろいろな昔話と 評判を装ったような人の悪口が出て・・・・聞いてて面白かった。

小学校2年生の頃まで 近所でホタルを見ることが出来た。おじさんの家は近所に200軒ほど家が立ち並ぶ端にあった。今は 昔空いてた側に 家が加わっているので真ん中近い位置となっている。

洗濯場

家から150m程行った場所に 水路の一部を引き込んだようにし、階段状に下がった場所が作られていた。そこでおばさん達の洗濯が行われていた。仕上げは 家で井戸水あるいは水道水ですすぎ洗う。学校の行き帰り 良くおばさん達がよく洗濯していた。当時は大型の固形石鹸を衣類に摺り付け、洗濯板と呼ばれる横に溝を切った板の上で擦っていた。大型のものでは洗濯板を使わず、足を器用に使って 足で洗っていた。

ここにホタルが飛び交うのである。ホタルの種類は「ゲンジ」か「ヘイケ」か種別は判らないが 飛んでいた。しかし 小学校5年生の頃にはホタルは見かけなくなった。

今 水路は底,横ともコンクリートとなり、段も廃止され 当時を想像することは出来ない。

洗濯機

洗濯機は 小学校1年頃 届いたと記憶している。洗った後は ローラーに挟んで脱水していた。もちろん動力は手動である。その為 家には粉せっけんの箱が置いてあった。初期の頃の洗剤の銘柄までは覚えていないが・・・その中にあって「金銀パールプレゼント」のキャッチフレーズの ライオンの「ブルーダイヤ」の大きな箱が 何個か並んでいた。多分 ばあ様若き頃の挑戦と見ているが、ばあ様に聞く気はない。 兎に角 当時の洗剤の箱はデカかったのが印象に残っている。

洗濯機の容量が小さく シーツなどの大きなものは 水路に行って洗い、自宅の洗濯機あるいは「たらい」に水を貯めて濯ぎ 手で絞り干していた。

夕食の会話

夕食の時 洗濯場の話,ホタルの話をしている際 奥さんが食いつた。自宅横の水路で洗濯していたのを見たとのこと。ばあ様 そこに「池と違うの」と突っ込みを入れ、「そこまで行くと遠い」と奥さんが返していた。

ホタルは当然出るよな!とおじさんが突っ込んだが・・・無視された。

考えて見れば奥さんの実家 山のふもとで おじさん家なんかよりもっと家少ない。ホタルは あたり前田のクラッカー。

過去をバラス

子供が小さいころホタルを見せるために、車で15分程行ったところに、ホタルを飼育,繁殖していた地区があった。山奥から水をパイプで引き、ビニールハウスの骨組みを利用してネットを被せ、流れる水路を作り「自然」を再現していた。町おこしの一環であり、知人が世話役だったので ホタル祭り終了後 ネット内に残ったホタルを 数匹持たせてくれた。家に帰り楽しんだ翌日事件は起きた。

ホタルとゴキブリを間違えて、新聞紙を丸めて叩いた犯人がいた。もちろん 犯人は奥さんです。

籠から逃げたホタル ゴキブリほど逃げ足が速くないため、ドジな奥さんでも一撃でした。

ホタル消滅

思い返すと 1964年 東京オリンピック前頃から 周辺の環境が急激に変わったように思う。農薬の使用などの農業の変革、固形石鹸から合成洗剤などの家庭環境の変革など 多様な波が押し寄せ 知らぬ間に自然との向き合い方が変わった。おじさんの家には「田んぼ」があったので、良くわかる。

現在では 牛あるいは耕運機から乗用トラクターと変わり、田んぼに入らず 代を掻く。子供の頃は泥田に入って 苗を取り 定規に合わせ田植えしてたのが、田植え機に乗って植える。この間「田んぼ」には一切入らない。年とともに少しづつ変わっていった。

手で稲刈りをして、木に吊るして乾かし脱穀していたのが、コンバインで直に取り入れ 脱穀まで済ます。籾の乾燥も「むしろ」に広げ 天日干し乾燥ではなく 温風乾燥機に変わっていた。

現在 TVで鉄腕ダッシュを見ていると そうだったと思えることが多い。ダッシュ村 ダッシュ島といい おじさんの育った時代を思い出す。だがそこまでこだわってやらなくても いいのではとも思う。

自然あるいは農業,漁業との付き合い方を考えなおす時期かと思う。100%昔が良かったというのではなく 持続性のある長い成長のために、後に続く子孫のために 立ち止まり考えたいと思う。

投稿者

おじさん

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