孫の様子を「見てね」の動画で見ていると、おもちゃの電子ピアノで「どんぐりころころ」を鳴らして替え歌を謳っている。「どんぐりころころ・・・しばらく一緒にあそんだら、やっぱりお腹が空いてきた♩・・・」とやっている。
それなりに知恵がついてきたのか?野球で言えば 変化球を投げれるようになったことを知り、うれしくなった。おじさん自身が替え歌を謳っていた頃まで思いだした。しかし 年数が経ち過ぎたためか 学生時代のチョットエッチな替え歌ばかりを思い出す。年取ると・・碌でもないことばかりを思い出す。
いろいろな知識が増えてこそ 孫に起きることであり、うれしく思った。同時に育てる親など周囲の力が大きく子供に影響すると思っている。親は「子の鏡」との言葉もあり、良き親となる心構えが必要ですが・・・ジイは普段合わないので・・当然 お気楽です。
そんなことを考えていると、「知恵が回る」と書いたが ハタと伝わるのかな?と思ってしまった。これは意味も書いていないと 通じないか?ダメかな?と思い、書き添える。意味としては「回る」という言葉は「十分に働く・機能する」という意味で用いられる。「頭が回る」「口が回る」「気が回る」と同じように滑らかに動くということである。会話と考えれば 単語だけの羅列から 単語を組み合わせて意思を伝える変化である。
子供に使うことの多いのは「知恵がつく」、困って考え込んだら「知恵を絞る」、女性に対していささかコンプライアンス気味な「女の知恵は後で回る」「女の浅知恵」など色々あり面白い。
年寄り 連想しだすと止まらない・・ここはついでと・・先日 浄土真宗の家では「お香勤め」と言う年末の行事があった。年末になると 寺から坊さんが来て、正信偈(しょうしんげ)と言うお経を詠む。その経典の正信偈の一節に「智慧(ちえ)の光明はかりなし」とある。子供の頃から 正信偈は全ての仏事で唱えるものだから、お経の大半が頭にあり ほとんど諳んじている。ここでの意味は 「阿弥陀如来の悟りから放たれる光は、とても量り知ることができない」 ということです。
相違点は 智慧はあるがままを見て悟ることをさし、知恵は生まれた後に学習して 身に着ける物事の筋道を正しく処理する力となります。智慧は仏教用語ですので普段気にすることはありません。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば 天国に行ける・救われると・・子供の頃から言われ続けていますし、これと言った悪事をした過去もありません。地獄に落ちることもないだろうと思っています。毎度ながら 他力本願に生きています。
歳を取るのはいかがなものか・・
孫の唄を聞きながら あの頃に戻りたいと・・ユーミンを何気に口ずさむジイでした