「われに七難八苦をあたえ給え」と三日月に祈ったという 尼子十勇士のひとり山中鹿之介(本名 山中 幸盛 当時は改名が繰り返された時代)の墓が岡山県高梁市落合町にある。

毛利家に滅ぼされた主家尼子氏の再興を夢みて 播州上月城に立てこもりましたが、戦いに破れる。

毛利輝元が居る備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場で 毛利氏家臣の福間元明に殺されてしまう。

年齢は34歳でした。毛利の家臣から 色々恨みつらみを買っていたのでしょう。

山中鹿介達が尼子再興を早く諦めていれば、対織田戦略で毛利も体制強化あるいは領地拡大も順調に進んだと考えられますので仕方ないかもしれません。

結果論

尼子旧臣の一部は 亀井茲矩(かめい これのり)中心として秀吉の家臣となり、戦国から江戸時代を生き延びた。

カッコいいのは山中鹿之介ですが・・・「家を残す」という目的を達したのは亀井茲矩ということになります。

江戸時代に「お家に尽くした悲劇の武将」忠臣として 講談でもてはやされ、英雄視されました。

実は「山中鹿之介」が講談などで再評価されるには、「家を残して続いた子孫」の存在が考えられ、単純な評価は出来ないことが分かります。

レジェンド

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」という歌がある。

この歌を詠んだのは 中江藤樹に師事した江戸前期の陽明学者 熊沢蕃山の歌とされる。

鹿之助の歌との説もある。時代的に考えれば、鹿之助の歌を聞き覚えた蕃山が 我が身と重ね合わせて歌ったのかもしれない。伝説とはそういう物だと思う。

逃げるから

誰でも困難なことや面倒なことは避けたい。できれば、何ごともなく無事に過ごしたいとも思う。

だけど 人生そんなに甘くないということも、それなりに生きても わかってくる。

困難あるいは面倒なことは生きていれば当然ある。ともすれば 人はそんなものだと思うのが楽である。

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」

自ら試練を望む者はほとんどいないと思うが、どうせ試練がある人生なら、これくらいの意気があったほうがいい。

一つの試練から逃れられたところで、同じような試練が姿を変えて 再度くるのは経験上分かっている。

おじさん 無理に試練や苦難を 引き受ける必要はないと思うが、自分が選んだ人生に付き添ってくる試練や苦難は 仕方ないと引き受けるのが良いと思う。

逃げるから追いかけてくる。犬嫌いな方は分かるでしょう。恐れるから なお追いかけれれる感覚。

大事なこと

逃げないと決めてもそれだけで試練の重圧を受け止めることは難しい。

おじさんは こんな時 ヨットを風にのぼらせることを考える。何度もタックして風に対して斜めに上がっていく。

実生活も同じと思う。目線を変えたり 方向を変えたり 着想を変えたり 単純に正面から受けるだけでは、無理と了解し 対策することである。

一呼吸入れて 見つめましょう 何か見えてきます。

受け止め切れないと思ったら、取り敢えず問題は置いておけばよい。人生は長い そのうち受け止めれるようになる。

投稿者

おじさん

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