伊能忠敬を見ているとある意味 おじさんの理想の人物に思える。伊能忠敬のような後世に残る仕事が出来るかは 完全に「?」だが、死ぬ直前まで現役で したいことをしながら ピンピンコロリと生きて行きたい。

伊能忠敬のように高邁には生きることは難しいと思うが、好奇心旺盛で生きることくらいは出来そうである。

「起承転結」との言葉が人生にもあるように思う。人生の第三楽章が始まり、そのキーワードは「転」だと思う。ただ転がり落ちるだけかも知れないが、それでは寂しすぎると思う日々である。「転」は「転換」「転身・転進」であると思い生きていきたい。「結」はまだまだ先と思いたい。

「千里の道も一歩から」日本の海岸線長さは4万Kmと言われます。歩きとおしたのみならず地図まで作ってしまった業績。姿勢だけでも見習って・・・歳とっても前を向き歩かないといけません。

伊能忠敬(いのう ただたか)

江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人である。

忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年期を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍した。

49歳で家督を長男景敬に譲り 隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年 第1次測量:東北・北海道南部測量)から71歳(文化13年、1816年 第10次測量:江戸府内測量)まで10回にわたり測量を行いました。

その結果 文政4年(1821)       大日本沿海輿地全図(大図214枚・中図8枚・小図3枚)及び大日本沿海実測録(14巻)が完成。完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。

門前仲町 富岡八幡宮

伊能忠敬の旧宅

伊能家は、現在の香取市佐原で代々名主を務める家柄で、佐原でも最も有力な商人でした。

忠敬は、17歳で伊能家10代目当主として婿養子で迎えられます。家業は主に酒造業を営んでおり、当時の屋敷絵図には、酒蔵がいくつも並び盛んであったことがわかります。

現在は、店舗・正門・書院・土蔵が国指定史跡(昭和5年4月25日指定)に指定され 見学できます。

おじさん サラリーマン時代千葉県在住でしたので、家族で見学などしました。当時は子供が小さく、ゆっくり見学する間もなく それなりに済ませて「アイス」だった記憶があります。

人が生きて行くのは 何かに引かれて行くものと思い・・・善光寺さんの牛に引かれて善光寺参り同様 何かの縁があり、そこに行ったんだと・・・そんな風に悟れば 超!楽なんですが、おじさん俗物でそこまでは思い至りません・・・しかし 今思えば僅かな時間でしたが 先達の一端を見ることが出来、良かったと思っています。その時気付かず 後で気付く 人間の特性かも知れません。

投稿者

おじさん

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