数日前 孫が保育園に初登園したとのことで・・これからどうなっていくのかと気に係る。多くの方が通るコースである。おじさんは保育園に通ったことがなく、幼稚園の年少が始まりであった。

おじさん恐縮ではあるが、自身が今振り返っても ほとんど幼稚園時代の思い出はない。それ故 それなりの団体生活を始めていたと思っていた。ところが ばあ様によれば 幼稚園時代 気に食わないと参加せず、一人で端っこで勝手気ままに遊んでいる子だったそうである。おじさんの地方で言う「いらん子」に近い。

まあ それなりに育って来たようで、小学校の通信簿では 協調性など団体生活でダメと評価をされた記録は見当たらなかった。程々であったと自身では思っている。

さあ これから孫はどんな人生を歩んで行くのかと期待している。孫が 願うまま・思うままに生きていければよいと祈念するだけである。孫が成人を迎えたとき、おじさんまだこの世にあるかな?とは思っている。まあこの世にあっても、ボケてあの世同然のこともある。何とか大丈夫であれば 祝ってやりたい。

いらん子

関西弁で「いらんことしい」という言葉があります。 「要らないこと」すなわち「必要のないことをする」という意味で使われます。いらん子はどっちでも良いというニアンスであり、一緒に遊んでも遊ばなくても良いというようなことです。親から言われれば 跡継ぎでもないので、どうでもよい子ということでしょうか?

おじさん ばあ様に言われそんな行動をとったのは・・多分 遊戯の事前練習のような、何度も繰り返しさせられた時だと思っています。今も同じですが繰り返すのが面倒なと思い、サボることが原因だったと思います。協調性というより我儘な性格だったのかもしれません。

現在は大人ですから、これまでの成長なのか?矯正なのか?それなり付き合います。本質的には自分に内在する癖と思いながら生きています。

設計の仕事をしているとき、前例のままでも良いのに、何か足せないかと考える自身の性格の元になったとも思え、甲乙の判断はしないようにしています。しかし 仕事は時間も限られ、お金儲けと割り切ってしないとコストが合いません。

人は自分と社会その他と折り合いを付けつつ、生きていくものだと思います。自ら変われなくなれば成長も止まり、退化する一方となります。どう人生を送るかの大部分は自身の中にあると思う。しかしウクライナの如く戦火の中で生き抜くだけに終始しなければならないことも多い。幸運なことに そんな事態は日本ではほとんど考えられない。

しかし世間様という銃弾の降り注ぐ中、生き抜くのは大変である。

子供・孫 そして諸兄の奮闘を祈念します。

投稿者

おじさん

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