お昼のニュースで金毘羅神社でお祓いを受ける風景が映し出された。その際 神職が振っている御幣が金色であった。金メッキ?かと思ったが、紙垂(しで)の折り目が余りついていない。紙のようで金属じゃないと想像できた。おじさんは祈祷中に背中に載せて頂いた経験が無いが、友人に訪ねたところずっしりと重いとのことである。友人からは紙に金箔を貼り付けてるんじゃないの?とのことであった。

正月前に地元 神社の飾り幕と提灯を吊るす準備のため早朝から準備した。その際 附属する石作りの小さな分社の中に金毘羅さんのお札が入っているのではと、屋根を外そうとしたが 重たいのと先日作ったしめ縄が切れそうなので・・諦めた。年を取ると無理やりな確認まではサボるようになった。今一度自らを奮い起こさないと流れてしまう。

信仰の歴史

金毘羅神宮は海上交通での神とされる。現在は海から10km以上の距離があるが、昔は入り江が鎮座する山の麓まで伸びていたらしい。現在は金倉川の流れに沿っているが、近くを流れる土器川の氾濫で埋め立てられた形になっている。

本殿へのラストスパート階段

祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)崇徳天皇であり、象頭山松尾寺の堂宇の一つとされ、明治の神仏分離までは金毘羅大権現とされた。香川県の寺社の祭神には崇徳天皇と菅原道真(天神さん)との縁が深い様である。一応 京都から近く 平安期までは上国に分類されていたので、天皇の流刑あるいは国司の実際の赴任があったためと思われる。

香川県の道路の多くは金毘羅街道と呼ばれる道路が何本も縦横に走っている。自転車などで散歩をすると所々に灯篭がある。道幅が2mもないような里道脇に置かれたりしている。なお最も 代表的な灯篭は丸亀港の太助燈篭(たすけどうろう)である。江戸時代は現在の高松・丸亀に松平・京極などの城があったので、高松からのルートにも整備されていた。

江戸時代にはお伊勢参りと並ぶ多くの参拝客を集めた。

御旅所のさや橋 松林がお祭りで神輿を置く境内

先に述べた通り 江戸時代の道はかなり狭い。おじさんの子供のころにどんどん道路が拡幅されたことを思い出す。国道が上下2車線で作られたのに車が走らない。「こんな道路誰が使うの?」と大人が話しているのを聞いた。今となっては車が渋滞し朝夕は困っている。理想を言えば 100年先を考え作ることである。しかし その変化はおじさんの過ごした50年で軽く覆るのを見て来たので、難しいことと判る。先を見るのも10~20年ほど見ればよいと思う。それ以上は無駄とも思える。

アマルガムメッキ

金毘羅と金にまつわることを書いたのでついでに金メッキについて書いてしまう。おじさんのブログなので勝手気ままに進めていく。

水銀に他の金属(特に金)を混ぜ合わせ溶かし込み、それを表面に塗った後、熱によって水銀を蒸発させる ―― これが古くから利用されてきた「めっき」の方法で、「塗金」(ときん)と呼んでいました(現在の「アマルガム法」にあたります)。

水銀に金を溶かし込むと金色が無くなり水銀の銀色になります。その不思議な現象で「金が滅する」という意味から「滅金 (めつきん)」と呼ばれるようになり、「鍍金(めっき)」へと変化したとも言われます。

「鍍金」の「鍍」の漢字が常用漢字で無いことから、新聞などの表記では「めっき」や「メッキ」が使われるようになりました。読みやすさなどから「メッキ」が使われることも多いですが、「めっき」は歴史ある日本語です。JIS規格では「めっき」が正式な表記方法になっています。

奈良の大仏等、鋳造された仏像はアマルガムを塗った後 加熱して水銀を揮散させてめっきしたといわれ、これもアマルガム法と言われます。現在も日光東照宮などの飾り金物はアマルガム法によりメッキされています。

投稿者

おじさん

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