時代と言うか?コロナの環境のためか?多くの方に不安と恐怖が訪れているように感じる。「明けない夜はない」とつぶやきながら 心の片隅で・・・ふとよぎる。若い方と比べて、おじさんは お金・病気などの「老後の不安」がその上に加わる。

不安と恐怖は、いずれも「恐れ」の感情に含まれる点では同じだが、使われ方は区別される。

不安は、対象がはっきりしないときに心に生まれる。恐怖は対象がはっきりしているときに生まれる。将来が恐怖だとは言わない。曖昧で実体のない将来に対して抱くのは不安である。

人間 如何に不安と恐怖の心を持った時、どう行動できるかが大切である。

ライオンとオリ

人間に危害を加えるライオンなどの猛獣に対して 同じオリに入った際に生じるのは恐怖である。動物園などオリで分けられオリの外にいれば、何も感じないのが普通である。

恐怖に関しても、必ずしも対象そのものに対して抱かれるのではない。例えば猛獣であるライオンが子供の頃から飼い慣らされていて、決して噛みつくようなことがない場合でも、恐怖を覚えることはあろう。「もしも?」から心の中で恐怖が広がっていく。

例えば 暗闇には何も存在しないことが分かっていても、人によっては耐えがたいほどの恐怖となる。不安や恐怖は、その人の脳内でつくり出されるイメージに対して抱かれる。厄介なのは、理性が危険ではないと認識しても、不安や恐怖の感情は、ただちに払拭できないことにある。

脳にこびりついた不安や恐怖を克服するには、訓練が必要になる。徐々に対象に慣れることが必要となる。

もちろん 訓練方法は個々の個性と経験があるので、単純にはアドバイスなどは出来ない。オリの中に 不安と恐怖 を入れられるか否かになる。

集団

不安にせよ恐怖にせよ 人間に必要な感情であることは間違いない。健全な恐れは人を目の前の危険から遠ざけ、あるいは将来危険に陥らないようにと行動をコントロールする。問題は それらが行き過ぎたときに、人を誤った方向へと導いてしまうことだ。

とるに足りないことを脅威とみたり、大騒ぎしたりすることで、さらなる混乱を招いてしまう。部下あるいは子供の失敗をことさら咎め(とがめ)たり、あれこれと禁止して人を統制したりするのも、恐れの感情を増大させてしまうからである。

親であれ上司であれ、臆病な人が上に立つと、下の者は何もできなくなる。もっといえば、他者になんら影響を与えない人はいないのだから、たとえ少数でも臆病者がいると、集団全体が機能しなくなる。やる気のある人の足を引っ張り、動かないことを推奨する姿勢が生まれてしまう。このような姿勢は、ビジネスにおいては害悪でしかない。 また怒りに任せ、他人を咎める人が上に立つとまた同様となる。

だがビジネスでは臆病さがないと,集団の影響で蛮勇になりがちとなる。従ってどこにバランスさせるべきかに大いに悩むことになる。

「石橋を叩いて渡る」を心掛け「石橋を叩き過ぎて割ってしまい 渡れなくなる」こともあるので、人間「中庸(ちゅうよう)」に生きるのは難しい。出来ることは場数を踏み経験を積むことしかないようである。失敗からは多くを学べるが、成功からは学べないこと 心に刻んで素直に歩くしかないようである。

投稿者

おじさん

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