『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師)が書いたとされる随筆である。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価され、教科書にて取り上げられご存じな方は多いと思う。
鎌倉時代末期頃に成立したとされるが 約100年経った室町時代になってから再評価されたと言う。多くの歌人や連歌師たちによって、共感をもって迎えられるようになった。
成立した年代 諸説が色々あり 鎌倉時代末期1330年8月から1331年9月頃にまとめられた説が長く有力説とされてきた。異論もあり 現在は長年書き溜めてきた文章を1349年頃にまとめたとする説も有力になっている。
略歴
おじいさんの敬愛する吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家である。本名は卜部兼好(うらべ かねよし)である。
兼好法師の生年の弘安6年というのは、観応元年を没年とする伝承の一部に享年を68と記すことからの逆算であるが、新たな資料がないことからこの頃の生誕とされている。
卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)と呼ばれる。
出家
出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著である徒然草から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたとも伝えられる。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。
逸話
完全な創作と思われるが・・・・
軍記物『太平記』巻二十一での、艶書(ラブレター)を代筆した話が知られる。室町幕府の執事 高師直(こうのもろなお)は、侍従局(じじゅうのつぼね)という女房(女官)から塩冶高貞(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従局に取り持ちを頼むが上手くいかない。いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。しかし判官の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまった。
和歌に無教養な人物として描かれる師直、実際は自作和歌が勅撰集『風雅和歌集』に入撰するほどの武家歌人であったという点で史実と異り、眉唾噺と理解できる。だが兼好の名が挙がるほど 当時は有名人であったことが分かる。