おじさんTVerで「のだめカンタービレ」をブログ原稿を書きながら見ていて、ふと「了見(りょうけん)の狭い」と思ってしまった。主人公のだめの友人として 佐久桜(さく さくら)が登場する。Sオケのコントラバス奏者であり、小柄のためコントラバスを背負って歩くと コントラバスが歩いているように見え 同級生から馬鹿にされていた。
父が事業に失敗し、しかも秘密に趣味のヴイオリン集めのため生活が苦しく、弁当屋さんのようなコンビニ(?)でアルバイトをしていた。オーケストラに参加できるように野田恵・千秋などが実家を訪ねるとさくらの父に 隠し部屋のストラディバリウスなどのコレクションを見せられる。その実 さくらの父はバイオリンを弾けなかった。このバイオリンの弾けないシーンを見ていて 「了見の狭い」と思った次第である。
鳴らすことのない楽器を持っているだけでは・・・勿体ない。弾けるプロの演奏家にでも貸出、その音を人々に聞かせてあげればよいのにと思ってしまった。破損が心配であることも認めるが死蔵するだけでは 社会の役にも立たないとしか思えない。考え方ひとつで社会に貢献できるのに・・死んだお金を使っただけと思った。
了見
了見を辞書で調べると「りょうけん」という読み方の「料簡」と「了見」の違いがある。おじさんは 「了見」は常用漢字表に合わせてあり、「料簡」は常用漢字表に載っていない。どっちの言葉を使えば日本語として正しいのかとも思うが、言葉は疎通が優先するので「了見」とする。
「了見が狭い」意味的には 人の考え方などが偏っていたり狭かったりすること あるいは人格や器量に乏しいさまの場合に使用する。
単純に私欲を満足させるのではなく、それだけではと思い 品悪く言えば「ケツの穴の小さい」としか思えない。バイオリンを手に入れ自らが弾けるのであっても、何度か弾き満足すれば、秘蔵すべきかどうかと考えないといけない。限られたものを演奏家に貸し出すことを考え、公器の如く扱うことを考えるべきと思う。
美術品も同じである。美術館に貸し出すなど限られたものをどう扱うかが大切と思う。
最後に 幸か不幸か おじさんはお金も無く財産も無いので、限られたものは公共の場で鑑賞させていただいている。当然 貸し出す側には廻れない。従って了見を問われることも無いので幸せである。
ストラディバリウス
楽器に関しては多くの記載が溢れているので、今更と思い書かない。
近年の気象研究によれば、当時が300年程続いた小氷河期の中であった。従って使用材自体の木目が詰んでいるとのことであり、現在では得られない材料となっている。
バイオリン本体の断面、ニスなど分析して現代技術を駆使してコピーしても、出せない音色であるらしい。無論製作技術も含めての話である。
物事の多くは「天・地・人」と多くの要素が加わり、小さな差が生まれていく。小さな差が集積して大きな差となって現れて来る。人間謙虚に生きなければと改めて教えてくれた。
なおさら伝えてくれた先人を思い、皆で分かち合うことが大事と思う。おじさんはお金がないので・・思い通りにならない。お金持ちの方よろしくお願いいたします。