これからの鉄鋼産業も二酸化炭素排出の影響を受けるとの記事を読んでいた。水素製鉄法は酸素を取り除く還元剤のコークスを水素に置き換えるというアイデア迄あり、クリーンな水素が十分なら 面白い産業となると思った。でも 水素脆性はどう防ぐかまでは書いていないので、まだまだ先のことと理解する。

おじさん頭が古くて、植樹してカーボンニュートラルを 求めるだけと思っていた。何処にでも 頭の良い着想力のある人がいることに安心する。技術が発展・確立されていくことに期待したい。

今日書こうと思うのは 昔 毛沢東が大躍進運動の時代に父から聞いた逸話である。現在の主席は習近平であり、彼が尊敬するのは毛沢東と聞くと 中国があらぬ方向に行かないことを祈るだけである。

日本刀

おじさんの父は 戦前は関東軍参謀本部築城部と言うところで働いていたそうである。第二次大戦末期になると関東軍から南方方面に転戦というか、配属を変えられる方が続出した。

将校は「恩賜刀」「礼装用軍刀」「指揮軍刀」を多くの方が3本持っていたそうである。礼装用軍刀は先祖伝来のものあるいは高価なものを礼装用軍刀に仕立てていた。指揮軍刀は長時間使うので比較的刀身長さのない軽いもので作るなど趣味に合わせていた。恩賜刀は軍学校卒業時の成績によって貰え、恩賜の軍刀を持つことは将来の出世を現わす象徴であった。

また 曹長のような上級下士官も同様に制式品が支給されていた。曹長なども好みに合わせ予備品を持つなどしていたそうである。

大戦末期 南方に転勤になると、軍刀は1本しか持って行けないという制約があり、輸送状況など悪く 当時は宅急便など 当然ない時代なので実家に送ることも叶わず、そんな刀が倉庫に溢れた。

父によれば倉庫番とも仲良くやっていたので、時間があれば抜いて姿を楽しみ、柄を外して銘を確認。それから抜刀術を嗜んでいたので、切れ味を試したそうである。

ソ連侵攻に伴って そんなものは置き捨てて逃げたが、足を撃たれ負傷し シベリアに送られた・・・。

大製鉄・製鋼運動

大躍進政策(だいやくしんせいさく)が 1957年の反右派闘争で党内主導権を得た中国共産党中央委員会主席毛沢東の指導の下、1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策である。

反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は 数年間で核武装や高度経済成長により 先進国であるアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追い越すと宣言した。しかし、現実を無視した手法と多数の人民を処刑死・拷問死させるなどの権力闘争のために中国国内で大混乱を招き、大飢饉(1,500万〜5,500万人が死亡と言われる)と産業・インフラ・環境の大破壊を起こし、多数の死者を出した。この辺りが南京事件のネタになり、掘り出された証拠とされるご遺体の服に化繊が使われていた。 朝日新聞の本田勝一氏は このことを知りながら報道した 捏造・印象操作の初めである。

鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もなく 適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。

ニュース番組でその風景が流される中、日本刀好きであった父が「溶かされたろな」と言いながら、先の日本刀の話をしてくれた。

手入れ

そう言えば、今年は日本刀を抜いて手入れをしていない。最近はエアコンがあるので湿気を気にせず抜いて、うち粉をして拭き上げ 油塗布して片づけている。父が抜刀に使っていたので 美術刀のようにはピカピカではない。適当に錆びない様に管理するだけである。

手入れの仕方は「門前の小僧」だったので、ごく自然に覚えている。

白鞘状態で図面用の長尺ビニール袋に入れた状態で保管している。実際に使用する時 刀身を入れ替える「拵え(こしらえ)」は別に保管している。

おじさんも抜刀あるいは居合の趣味があれば良いが、残念ながらそのようなこともない。子供の頃 父の木刀を振り回し、木刀の先を地面で削った男である。才能は元よりないと分かっている。また近年の50肩でゴルフクラブなど鉄物を振り回すことにも無理がある。

そう言えば過日 刀の手入れなどは「肌思いシリーズのティシュ」が良いと教えられたので、今日の散歩帰りは 超やわらかティシュがスーパーにあればゲットしておきたい。そう言えば 以前購入した 超やわらかティシュ は孫のお尻拭きで消費されたことを思い出す。何事も平和が一番。

投稿者

おじさん

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