この言葉の響きは心躍らせる。おじさんが自営業だったからかとは思うが 良い響きである。同様に時代劇で出て来るお代官様と悪徳商人のシーン・セリフに「濡れ手に粟」袱紗(ふくさ)を取りながら「小判の切り餅・・・越後屋 お前も悪よな」いつまで経ってもこの描写と言葉が好きである。
「越後屋 お前も悪よな」と「濡れ手に粟」との良いコンビネーションである。
この性格と言うか?好みは子供の頃から時代劇を見せられたせいであろうか?それともおじさん自身が歳を取ったためか?
おじさん「濡れ手に粟」の「あぶく銭まみれ」な目に会いたいと思うことは多い。修行が足りないのかもしれませんが・・・年金生活の潤いになります。チョットした工夫で美味しくなる料理のようなものです。
さて 今日ここに書いたのは、これって日本語が変わる最前線と思ったからである。「死語」とはこうして出来上がり、「言葉」が変わると思ったからである。
濡れ手に粟
一般的には 「濡れた手で粟をつかめば 粟粒がたくさんついてくるように、骨をおらずに多くの利益を得ること。 やすやすと金もうけをすること」 となる。
時代が変わり 間違って「濡れ手で泡」と書き、いくら努力しても実いりがないことの意とする方がいることは時代の流れかと思う。銭湯のジェットバスあるいはバス入浴剤を使った時に、腕や手に泡が付くのを体験する。従って身近な事柄で 誰でも理解も出来る。
見方によっては、現代人に馴染みが薄くなった「粟」を、誰でもイメージしやすい「泡」に変えた「新世代の慣用句」とも言えます。粟をカタカナで書く時代が生んだものかもしれません。この誤りが広く普及し、言葉の「進化」と呼べる段階にまで達する可能性も「あり」です。
粟(あわ)
「粟」という穀物を 日本で「常食」している人は 現代ではアレルギーのある方以外はいないと思う。おじさんが子供の頃は粟稗(あわひえ)と言えば、稲の間に大きく育つ植物で 「あわおこし」でしか食べたことはないが、田んぼの片隅で見たことはある。なお最近の「あわおこし」は粟ではなく、その他の雑穀と砕けた米などで 出来ている様です。
現在 見かける中心は「小鳥の餌」として売られている程度と思う。
「見たことさえない」という人がいても不思議ではないのが現状で、「身近なもの」とはもう言えない。
調べるうちに 「濡れ手で粟」、「濡れ手で泡」、「濡れ手に泡」と助詞違いも存在する。
正確な慣用句としては「で」なのですが、どちらかと言えば「に」の方が好かれている印象です。能動的な「で」より 受動的な「に」の方がぴったりくるのかもしれません。おじさんも「に」が好きで我儘に使っています。
こんなところから変化していくのが面白く、また徒然なるままにネタを追いかけて行くようで・・・自身の性格ながら・・・おじさん 暇つぶしの天才になれるかも知れません。
また日本語の助詞の多様さと表現力に 改めて驚いています。矢張り 外国人にとって日本語は難しいかも知れません。