最近 先輩の一人が茶道に目覚め、奥さんと稽古に勤しんでると知人から聞いた。過日 ご披露があり、はかま姿でご登場された由とも伺った。ご本人の趣味であり自由である。後輩としては 時間があって 遊びに出かけた際 付近の窯元で「左馬」の茶碗の安いものがあれば、探して贈るのも一興と思っている。なお「左馬」の茶碗は「上手く行く」「中風除け」になると言われている。
この歳が来ると 死ぬまでとは言わないが、寝込んで立ち上がれないところまで 遊べるものが嗜みと思えてくる。
酒・たばこ
酒もたばこも「嗜む」というが、これは芸がない嗜みである。普段から別段の訓練をすることなく、口にすればよい。努力も別段要らないことのように思えるので「嗜む」と言うことでは「下」と思う。
若い頃 酒を飲みながら甚句を謳う爺さんがいて、好きな芸を好きに演じる。そのサラリとした粋さが良かった。こうなると酒の酔いを楽しみながら、甚句の披露 「嗜む」ということでは「上」と思った。
YOUTUBEに「相撲甚句」があったのでご紹介して置く。少々会場がざわついているのが難であるが甚句を知っていただく機会と思い載せる。良いと思うが 若い時から最低のカラオケ訓練さえしてないので、自分がチャレンジするのは無理が見えている。
審美眼・美術
TV番組「何でも鑑定団」を見ていて「審美眼」なるものが大事と思いだした。
芸術作品を観たり、聴いたりするからこそ、脳や心が刺激され、普段の生活では味わえない感情を得られたり、深く物事を考えたりできる。それが教養を深め、人間力を高めることにつながるように思う。
だが番組を見ていれば分かるが、人は金額と名前にコロリとやられてしまうようである。如何に人の評価という外乱を避け、自分自身の欲を離れ センスを貫くなどを要求される。やはり学習というものだけで美術史を勉強したり、画家の名前やその代表作を覚えるだけでは、効果はないと思う。知識は増えるが、教養は深まらない。他人に知ったかぶりは出来るが、本質を掴んだわけではない。
先ずは 身辺の美しいものに意識を向け、美的センスを磨くしかないようである。
毎日を楽しんでいると、いつの間にかそれが周囲を観察する訓練になっていて、芸術に対してもっと興味や関心が持てるようになり、美しいものや心に響くものを見つける目と感覚も磨かれるようになればと思う。
考え出したものの まだまだセンスを手にするには 先は長そうである。美術館もこれと言ってない田舎暮らしでは?と思いながらも、いつかはチャレンジはしたいと思う。
余談であるが 昨日オークションの古本で「歌川広重 保永堂版 東海道五十三次 (上・下)」をポチリと入札してしまった。コピー見るのが精一杯。理想と現実は離れているが、先ずは 第一歩。