人間生きていると全力でやったものの 最終あるいは分岐点付近で、どこか違うと「消しゴム」を使いたくなることがある。おじさん図面を描く仕事をしていたので、こんなことが良くあった。昔は手で描いていたので・・・時間がない場合は・・・やり直す時間などから 諦めて・・・仕方ないかとやっていた。まさに「諦めの産物」でも仕事としていた。プロはフリーランス的要素が強いので仕方ない。
それがCADに変わって レイヤーと部品を組み合わせ簡単にできるので事前の検討を余りせず書いていく。ダメなら簡単にやり直せるので、諦めの産物は減ったが図面の出来は 過ぎたことをし過ぎたりもう少し考えろと思うことが度々あった。
究極のところ 人生あるいは仕事とは「諦めの産物」を捌きながら生活することと思える。出来上がりをどこに置くか・・・それが問題とシェークスピア風に悩むか?
諦め
手で描いていた時代 やり直し出すと下地のトレーシングペーパー,ケント紙が毛羽立ち、描き心地が悪くなったり、修正液で凸凹し出す。更に線が気に入らなくなり、結果 新しい紙で一からとなる。書き直ししなくてよい範囲まで直すことになる。そんな訳で 描く構想をそれなりの時間をかけて 着手初めに決めることを求められる。
多くのこと 簡単と思って安易な覚悟でやってはならない。錆びた鉄は多少手を入れても良くならない。従って原則は最初から手を入れるか、悪くなれば 徹底して磨きなおして塗装し直さなければならないと思うことが大事である。
歳をとるにつれて コピーを手始めに、画像取り込みなどが容易になり、おじさん自身が見ても 手抜きが増えて行った。CADはレイヤーに分け一部修正・回転・移動と容易になった。この辺りから、若手が描いたものを見た時、彼らの工夫あるいは思考が軽く浅くなったのを感じた。ここまでやるかと言うものを見なくなった。
最大の諦めの産物
「最大の諦めの産物」この言葉について 奥さんあるいは子供のこととナチュラルに思われた方は 不幸な人生を歩まれていると高察申し上げる。おじさんも 諸兄同様「諦めの産物」といくらかは断言しがたいが、そうした安易な考え方は 不味い生き方を選ぶことになるので・・・選ばない。そんなことは これっぽちも思わぬように努めて生きて来た。要は責任転嫁のような「狡い(こすい)」ことをしない方が良いと生きてきた。
体験上 リセット操作は直ぐできるとは思うが、「諦めの産物」を持ちながら生きていくのが人生と思う。全てがバラ色の人生なんて・・・絵に描いた餅のようで・・・面白くもない。おじさんが子供の頃「クリープを入れないコーヒーなんて」というCMがあり、万事 同じようなニアンスと見ている。風雅の本質 望月(満月まんげつ)より十六夜(いざよい)の月 そんなものである。