先日子供と会った時 なぜ香川県だけ「うどん」なのだろう? 他の四国3県は「そば」をよく食べるのにと言ってきた。ついてはおじさんの考えていることをまとめておく。
「粉食」の歴史は「つき臼」「ひき臼」などによる紛体化技術が欠かせないが、これはほぼ同じような過程をたどりながら発展してきた。大陸から奈良・京都そして地方に伝播していった。その為 作物として小麦が選ばれた経過が 地域での食を決めていったと考えている。
粉食と言う文化のある地域 つまり臼(うす)を製作できる地域では麺が発生発展するが、製粉技術が荒い粉までで留まる地域ではパンまでになることが多いようである。
香川県での小麦生産は綾川・土器川流域で始まったと考えている。うどんを伝えたと言い伝えられている弘法大師空海生誕の地 善通寺は土器川の西岸にある。香川県を流れる3大河川は「香東川(ごうとうがわ)」「綾川(あやがわ)「土器川(どきがわ)」であるが・・地学的には全て吉野川が元であった。1億年前に瀬戸内に流れ込んでいた吉野川は流れる方向を変え、今では徳島に流れている。そんな訳で香川県を流れる3大河川はお互いに間に山があるが 近接している。
このあたりは 地学の本で確認されればご理解いただけると思う。更に丸亀市に流れ込む土器川と宇多津町に流れる大束川(だいそくがわ 旧土器川)は丸亀藩と高松藩の国境であり、江戸時代の案内書でも位置は不明確である。そして土器川下流の扇状地は 比較的砂礫が多い地質であり、川の流れは消えたり現れたりを繰り返す。また頻繁に洪水を繰り返し 流路を変えたので、流域は米を作るには適した土地ではなかった。そこに登場した作物が小麦であった。
余談であるが おじさんの父は養子であり おじさんの父方祖父の旧姓は「○○」と言い、これは昔 綾川上流滝宮と言う地域で水車製粉していた一家である。つまり今でいう製粉業者であった。その為 父なども小麦に対する思い入れがあったので、サラリーマンを辞めた直後にパン屋さんを始めたきっかけのようである。しかし 10年経ずして軽い脳梗塞を発症し 仕事を変え不動産屋になった。そんなことを父から聞いていたのでおじさんも特別の感情が小麦粉にはある。
讃岐三白 和三盆・小麦粉・塩の一つでもある。子供の頃はサトウキビを締めて液糖を作る丸い小屋なども通学路にあり、身近にサトウキビ畑があったが今では見かけなくなった。また父の経験から肉体労働がキツイものは、よく考えて仕事を選ぶべきと伝え聞いているので、子供にも そのことは伝えている。・・話しが逸れそうなのでここまで!
塩
うどんのコシを生み出すものは 塩である。小麦の中のたんぱく質グルテンを結合させるのを助ける。昔から夏場は塩を多くして水を控える。口伝では「土三寒六常五杯(どさんかんろくつねごはい)」がある。茶碗一杯の塩に対して、夏は三杯の水で、冬は六杯の水。それ以外は五杯の水で合わせるとされます。おじさんが子供の頃はうどん屋さんのオケの中に濃度計(ボーメと呼んでいた比重計)を入れ測っていた。なお 口伝は試してみると塩がきつ過ぎるので・・昔とは粉が違うようで・・やってはいけない。
勿論 塩は入浜式(いりはましき)塩田に始まり 子供の頃は枝状架式(しじょうかしき)塩田 今はイオン交換樹脂による製塩が坂出市・宇多津町で江戸時代から盛んである。
要はうどんを作るのに適した環境が 香川県の中讃部にあったために、盛んになったと思われる。子供の頃 農家では7月から収穫した小麦でうどんを打って食べていたとの話もあり、香川製麺業者では 半夏生(はんげし)7月2日をうどんの日としているようである。
最後に うどんにも群馬の水沢うどん・伊勢の伊勢うどんなど全国各地にある。特にうどんは「博多発祥」と言う話も有名である。おじさん 福岡にいたころは「ごぼう天乗せた なよこしうどん」をよく食べた。伝統に恥じぬうどんは全国にある。讃岐うどんが 現在名高いのも 香川の中讃地域が材料である小麦と塩に恵まれた結果である。
そばにしても そば殻の残った田舎そばに そばの殻を除いた白い更科(さらしな)で作った蕎麦もあり 、つなぎに小麦粉の入った二八そばもあれば つなぎナシまである・・それぞれを美味しく 打ち立て・茹で立てを楽しむのが一番である。おじさんはその上で 洗いたてのうどんに醤油が・・じゅるりである。