日本に一番必要なのは「やってみる」ことである。多くの方が 中国などを見て「やって やって 結果オーライがたくさん出た」のように見ている。特に中国などは日経その他マスコミは記事発表後の取材拒否などを恐れて、中国のマスコミ報道をそのまま報じる。従って「中国 エライ!」の万歳記事に流されての報道なので・・聞いたり読んだりする一般日本人が・・中国に敵わないと思い易い。

おじさんは高度成長期に育ち、周囲は冒険的な大人が溢れていた。おじさん今の日本は組織が肥大慢性化して、風通しが悪くなり・・多分中間管理職の忖度あるいは過剰適応によると思っている・・開発などで失敗を恐れ過ぎた結果のように思っている。従って経営者がうまく対応しないと会社全体が委縮していく。

アイデアなどは100あるとすれば良案は1か2である。避けなくてはいけないのは基本的あるいは最初から失敗と分かるものである。例えば製品として出せば法令違反、構造が複雑で製造方法に疑問が付くなど判定要素は多いと思う。それでも「あればみんなが喜ぶ」との姿が想像出来れば・・挑戦するのが当たり前である。結果ダメでも次を目指せばよいが・・開発費を掛け過ぎて次がなければと、不安感にさいなまれることは若者を育てる。

ここで どうか分からない判定が付かないものが問題になる。でも・・やらなければ失敗はないが成功もない。バブル時代の白物家電製品を見れば、理解できると思う。無駄がなければ 良いものは生まれない。

バブル以前は数多くの企業トップが一代で成り上がったあるいは戦争が終わり一気にトップとなった方が多く、怪しい経歴あるいは複雑な人生を歩まれた方が多かった。それに経済成長策のため、銀行がどんどん融資してくれるので 内部留保がなくても、会社は自由に動くことができた。トップも胸を叩いて遣って見ろ!とした。

おじさんは会社に入り、2年ほどは製油所のトッパーと呼ばれる原油蒸留部門で現場仕事したが、3年目からは出荷部門でスタッフとして、これといった仕事もなく、資格試験・研修その他で出張と、他の部門スタッフ・危険物高圧ガス協会などでの他社社員との勉強会などに参加した。おじさんと同期の3人が入社以後4年程 同じような処遇で過ごした。先日同期会を開催した時の中心メンバーである。会社上層部の考えであろうが・・恵まれていた新人時代だった。

ちょうどパソコンが各部署に何台かずつ置かれていった時代でもあった。当時はWindowsなどなくDOSの時代であった。おじさん達世代が操作出来るなどの対応力があることを見込んでのこともあったと思う。おじさんは以降も パソコン普及そしてCADに流れる一連の流れの中で 現役時代は仕事をしていたと思っている。

今 新たにAI時代が到来してきて、その流れに乗るのも人生である。もちろん その流れに竿を差して生きるのも人生である。

格言

サントリーの創業者 鳥井氏の格言に「やってみなはれ、やらなわかりまへんで」がある。

鳥井氏は国産初のウイスキーを売り出すなど次々の挑戦をした人物である。 

1879年、大阪市(現・大阪府)生まれ。小学校時代は4年飛び級で高等科に編入されるほど優秀だったという。13歳で薬種問屋に丁稚奉公に入る。奉公先では葡萄酒、ブランデー、ウイスキーも扱っていて、鳥井氏はここで洋酒の知識を学んだ。

20歳で鳥井商店を創業。最初、スペイン産の葡萄酒を販売するが売れなかった。そこで、日本人の口にあう「赤玉ポートワイン」を製造し販売。これがヒット商品となり、1921年には株式会社寿屋を設立。その後、赤玉ポートワインは国内ワイン市場の60%を占めるまでの商品になった。おじさんの子供の頃 ワインに対する考えは、現在と違い輸入物の赤ワインを飲んで初めて・・本当のワインの味が分かった思い出がある。父のオジサンがワインを自宅で密造していたので、本物の味は理解していたので、オジサンのワインと同じだという感想であった。

その後、鳥井氏は本格的なウイスキーを製造するため山崎醸造所を建設。1929年に初の国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」「サントリーウイスキー赤札」を売り出す。しかし、当初はあまり売れず、1937年に売り出した「サントリーウイスキー12年」でようやくウイスキー事業が軌道に乗る。

最後に、取りあえずやって違うところに立てば、必ず違う風景が見えてくる。そんなチャンスが子供たちにもあれば良いのにと考えてしまうこの頃である。

投稿者

おじさん

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