昨日 ゴミを集積場に持っていくのは・・・私と 奥さん持って行かないおじさんをやり玉に挙げて来る。どこどこのご主人などと枚挙にいとまがない。おじさん自治会役員なので2週間に連続2日1時間ほど不燃物収集立ち合いを行い、仕訳が違っているあるいはスプレー缶のノズルの取外・穴明のない場合、対応あるいは取り除く作業などしている。そこで見かける不燃物収集の持込み状況は 旦那対奥さん ほぼ1対1でありどちらが多いとも言えない。

奥さんの多くの言い分は自分が見た短時間・範囲の話が多い。先日も灯油のお客の購入状況で書いたが、最近は女性が多い。長い時間見渡せば、過去の意見と異なることも多い。

もう少し書き足せば、早く起きれば「何もしない」といい、ゆっくり起きれば「いつまでも寝られて」と必ず言い出す頭につけて来る。面倒なことである。

おじさん思うに 夫婦(パートナー)の理想の形・要望は時代とともに変わっていく、お互い努力するしかない。「私」の考え・見識が常に一番ではないと 改めて「彼我」に問いたい。

主張と評価

バレンタインも近いが、手作りチョコレートなるものと同じように思うことがある。ご本人はうまく出来たと満足なのだろうが・・チョコレートで言えば再溶解して、テンパリングが怪しいので味はベストではない。大人になれば 人たるもの物事の背景まで考慮し評価はするが、ご当人が主張しすぎれば逆効果となる。この辺りが生きる際の勘所のようにも思えてくる。

先日 雪舟について書いているものを見たが、雪舟は50歳を超えて躍進した画家である。子供のころの涙で描いたネズミの話で、子供のころから群を抜く画家と思っていたがそうではなかった。雪舟は絵の才能が認められ、足利幕府お抱えの絵師集団に入るが、当時の主流は朦朧(もろう)とした水墨画が中心であり不遇となる。適当に好きなことと仕事を分けられる性格であれば、適当にやれると思うが 雪舟はダメなタイプだったようである。

40歳過ぎて周防の大内氏に招かれそれまでの画号を拙宗(せっしゅう)から雪舟に改めたといわれる。応仁元年(1467年)に遣明船で明へ記録画家(今であれば記録カメラマン)として渡航。各地を廻り約2年間本格的な水墨画に触れた。そして感銘した浙派(せっぱ)の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した。

帰国後は弟子も増え、その絵の賛(さん:今風には推薦書)をもらうときなどは、明に行って本格的に習得したなどと高僧への依頼文書に残すなど、なかなかの世渡り上手な面が見える。それ故アッピールの仕方も大事と思う次第である。主張の仕方は順番・方法・表現などを間違うと本末転倒状態・逆効果となるので難しい。

好きだった人

おじさん好きだった人同士が結婚し、数か月で別れた後輩がいた。さあ どうしてと思いながら考えても分からない。時間が経ち落ち着いたころ 酒席で「言葉の行き違い」のようなことと判り愕然とした。時間とともに お互い遠慮が減り、言い過ぎることもあると思う。

そんな訳で、好きになる努力をお互いすることが大事と思うようになった。もっと言えば片目を閉じて見ること、あるいは減点法で見ないことが楽しく日々を送る知恵かもしれない。「好きだった人」では 最初が最高ポイントであり、減点されてポイントが無くなるのは、当たり前田のクラッカーである。

また 養老孟司の解剖学に進んだ理由を説明しているくだりを読んだ際、医者は患者さんが来て対応すれば自由さがなくなる。自由さを考え、患者さんの来ない そして学究としての解剖学を選んだ。ところが研究するためにはご遺体が必要となる。人の死は自由になるものでもなく、盆・正月を問わず検体頂ける方に対応しなければならない。

思い通りに生きることは・・同時に 思い通りにならないことも生み、努力しないといけないと後年気付いたとのことである。

生きることはどこかで片目を閉じて、話半分に生きていかないと間違う。好きだった人で済ませず、常に好きになるようにお互いが努力することが大事と思う。

最後に おじさんも日々!努力しています。そうでないと あの奥さん相手に30年以上持ちません。なお 以上ただの独り言です。愚痴ではありませんので、ご高配ください。もちろん 向こうも言っているかもしれません。それで何とかお互い夫婦(パートナー)としてもっています。 

投稿者

おじさん

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