中学生同士の喧嘩なのかイジメられた側の少年がネットで刃物を購入し、相手を刺した結果 刺された同級生が亡くなった。思わず「窮鼠猫を嚙む(きゅうそねこをかむ)」と思ってしまった。
イジメは原則悪いことだとは思うが、ニアンスのよく似た「いたぶる」は物事を会得する際の練習に欠かせない。子猫同士が「じゃれ合う」のは見ていて面白いが、先住猫、母猫などが軽くいなすような猫パンチを浴びせたりする。猫の大きさから「いたぶる」というような表現がぴったりとなる。それ故 先の様に「物事を会得する際の練習に欠かせない」と考えている。
何事も限界を超える前に留めるか否かの 精神的&肉体的コントロールが出来ることから「価値」が決まってくる。言い換えれば「寸止め」に極意が集約されるのである。例えばバネも限界を超えれば変形し元に戻れなくなる。戻れる限界を知ることが大事である。
「粋と野暮は紙一重」という言葉もあるが、物事の境を考えて見ることが大事な時代と思う。この歳が来ると紙一重の落差が大きな違いを生むことがよくわかる。従って「たかが」という言葉遣いに慎重になる。例えば温暖化対策の目安目標は、たかが平均気温1.5℃の違いである。これが世界を一変させようとする原動力である。
窮鼠猫を嚙む
まだ確定的なことではないが、刺した少年はいじめられた結果 行為に及んだと証言している。少年同士で興奮しエスカレートし過ぎた結果のようだと考えている。刺された少年の死亡することが無ければと、今も残念に思えてならない。どちらもが多少傷ついただけで終わり、お互いがどう自分をコントロール出来るかという知恵・知識を得れなかった不幸な状態に繋がったことが悲しい。
特に考えたのが 凶器がネットで入手出来たことに驚く。このことが事件を大きくした原因でもある。手で殴るだけであればと思ってしまう。それ故 人に知られずナイフなどを入手できることが問題である。販売店での対面でなければ入手出来なければ、年齢を確認などで少年が入手できる事態に及ばなかったとも思える。誰もが責任と管理の存在が甘いなかで、流れていく。ネット社会の不幸な面と考えてしまった。
紆余曲折
人間 自由に生きることが大事なことであるが、責任範囲が限定的な未成年者には何らかのタガが必要に思う。逆に近年は子供が親の介護などに縛られて、子供としての時間を取れないとのニュースも見る。この辺りを目配りしたり、コントロール出来るか否かが親の力量と思う。だが健康・仕事など親自体がどうしても無理な場合もあるので、「親の力量」とまで断定できない。そして単純に「親が悪い」とも言えない。
ぐうの音(ね)も出ない正論は人を押し潰すことを知っているので、強くも言いたくない。まあ 大人になる道は紆余曲折が多すぎる。大人になってもほぼ同じである。結論めいて言えば、生きているその場その場で判断して生きていくしかない。そして「大過なく」の重みが理解出来る。