健康で十分な食事そして睡眠などがあるからこそ、考え・理性的に行動することが出来る。普段あまり意識しない「健康」と言う前提条件があって行動出来る。また経験など 育ち、学歴など個人の状態で考えることが異なってくることもある。ところが 人はしばしば「あたり前田のクラッカー」のように 前提条件があることを忘れてしまう。
人はそれぞれ 暗黙と言っていい様な前提があることを意識しておかないといけない。この暗黙の事項は教えられることがほとんどない。それゆえ下手すれば逆のような結論に至る。従って子供を育てる際は、ある種の原則論のような前提条件まで 親としては考えておく必要がある。
昨日ブログ原稿を書いた後、下のようなニュースを読みながら、教える側が突っ込んでいないと 誤った結論に至る可能性が大きいと感じた。やっぱり大事なのは「前提」かなと思った次第である。
広島市内の40代会社員男性から、こんな声が編集局に届いた。核兵器廃絶を願う被爆地で平和教育を受けているはずの子どもたちは、どんな情報に囲まれているのか、調べてみた・・・子どもが「日本は核で仕返しを」とのこと・・・おじさん 原因の根っこは 同じと思います。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c34ededf625c31a0352a1384c27e8947b87f39a
歴史
江戸時代 外様とか譜代とか言うが、殿様の殆んどは江戸で育ったシティボーイであったことに 気付いていないと歴史の読み方を誤る。幕末に置いて島津斉彬は養女篤姫を幕府に嫁がせるなどした。この辺りは 外様 島津斉彬と老中であった譜代大名と親交があったから生まれた。島津斉彬は世継ぎであり、子供の頃から江戸在住であった。彼の死後継いだ島津久光は鹿児島で お山の大将として育ったので、幕末期 勝手・気まま自由に行動できたと考えられる。其れ故 大久保・西郷など下級家臣の活躍・暴走を容認したとも言える。
有名な上杉中興の祖と言われる上杉鷹山もしかり、ほとんどの大名は江戸育ち のシティボーイ である。従って藩に帰るのは 正式に藩主となって参勤交代1年おき・・・多少無理なことでも、思うまま遠慮なく命令・下知できた。
鷹山の名言に「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という句もまた見える風景が変わってくる。
更に 武田信玄の名言と言われる「為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成りぬと捨つる人ははかなき」という句もある。
諸兄が見える風景が変わらなかった場合を考え、似た句を出した。どちらが良いかは受け取る人の問題と思っている。
朝鮮通信使
韓国では日本に文化を伝えたと中々うるさい話であるが・・・過去にはあったことは否定しないが、色々変化したと思う。
例えば 朝鮮通信使これは基本的には江戸幕府の将軍就任(代替)で国書を交わすお祝いの使節と言うのが、適正であると思っている。幕府の威厳を演出する行列・イベントであったと思う。
通信使の江戸城に入る門は「平川門」であり、格式としては5万石の大名同等に遇されて、入った直後「下馬」している。従って 三の丸には徒歩で入場となる。
徳川家康が豊臣から政権を奪い、豊臣時代の朝鮮出兵における関係悪化を修好する目的と考えるのが妥当である。江戸幕府財政が豊かな間は良いが・・明治に近づく幕末 最後の通信使は対馬で国書を交換して終わっている。明治には新たな朝鮮使節が招待されるが・・・朝鮮は時代錯誤な人々と記録される。
教えたとされる朱子学などの学問は、日本と朝鮮の儒教は異なる発展をする。初期には中国に近いので 朝鮮から学んだこともあるが、途中から日本人の学問への評価が変わっていったことを 理解できていない。日本では陽明学が徐々に学問として重んじられて、考えが発展していく。
朱子学的発想は日本では廃れて行く。そのためバリバリの朱子学の朝鮮からは学ぶことも少ない。でも 日本人はやさしいから「おもてなし」した結果、このような朝鮮が日本に教えた説が流布したと思っている。現在韓国に対して「ピシャリと言う」行動が多くなってきたが、彼らの民族的形質と歴史を考えると、適正であると思う。
同様に日本では 科学技術・医術なども 時代と伴に 東洋から西洋に変化していく。
江戸時代 朝鮮は鎖国を清に従い継続したが日本は、長崎出島などにてオランダルート他から国書・報告書を得て、世界の大勢が変わっていくのをモニターしている。幕末期に一気に世界情勢が国内に広がり「尊王攘夷」から「尊王開国」に代わる要素となっている。現在のNHK大河ドラマでも その一端が見える。
日本の幕末期 朝鮮では アメリカ商船シャーマン号の焼き払い事件など 朝鮮の世界情勢を知らない行動が起きる。従っておじさんは 朝鮮通信使が日本に教えたとのことは 失礼ながら「田舎者の戯言騒ぎ」と思っている。江戸初期はともかく中期以降は?・・・時代・人が移っていくことが判らない方の勝手な作り話と思うことにしている。
奇しくも 昨日 明治期にも朝鮮の使節を招待したことがあったとの記事が、韓国のマスコミの日本語版で掲載された。彼らを啓蒙しようとしたとの内容であったが・・・ムリだったようである。歴史はこの後「征韓論」を中心に動いていく。