夏が来ると サラリーマン時代に「くびき」と言うか、一律的見方で自らが縛られていたと思いだす。

おじさんは 幸福と言うか、生きてる充足・満足感は自分が変わることが原則であると思っている。

結婚でも良いし、転職でも良いとは思うが、本人が変わる努力をすることが無ければ、結果はやはり不幸になると思う。先日の小田急線の刃物男の話を聞いて再確認した次第である。

自身が線を引き、自身が決めた線まで届かないなどと 人生を総括すべきではないと思う。他人はどう思うかとか、他人が幸せそうと 勝手に判断するなと思う。

くびき

家畜などで耕運作業、車輌の牽引などをする場合は、それぞれの個体の頸部にくびきを挟み、そこに轅(ながえ)を取り付けて犂や車につないで用いる。牛などの自由な行動を起こさないため用いる器具である。転じて「自由を束縛するもの」の言葉として使われる。

おじさんが夏の日に思ったのは、暑くてしようがないのであれば スーツを脱いで、シャツを脱いで涼めばよいだけと単純に気付いた瞬間からである。TPOにてドレスコードを自分で決めれば良い。

極端に言えば、パンツ一つで椅子に座り、仕事をしても誰にも迷惑を掛けない。勝手気ままな性格をしていたので、会議室の空きを確認 会議室を占有して、短パンTシャツで仕事をしていた。勝手気ままと言いながらどこかで周囲には配慮するおじさんの性格である。

単純なことであるが、誰もそうしたスタイルを採ろうとしない。かくあるべきと自らがトラップに引っかかる方が大半であることと解かった。

現在 年金暮らしであるが、かくあるべきと言いだしたらサラリーマン時代同様にトラップに捕まるようなものと思っている。生活していて年金はそれなりなので、お金が少ないあるいは小遣いが少ないと言っても変わらない。言いだしても 自らが不幸に思えるだけである。

バイトをしてでも マイスタイルの確立が大事なことと思っている。人様などはどうでも良いことである。自分が満足であれば、幸福と思っている。

人様

奥さんなどが「人はそうは思わない」などとよく言っていたことを思い出す。

何処を起点に判断するのか聞いてて判らない。判断する起点がその都度変化するので、クレしんのように「何時何分・・・地球が何回廻った・・」と聞きたくなる。

あるいは基準は何処にあるのか疑問が沸いて来る。自身が基準なら笑うしかない。基準とするのは人様である世間の基準でなければ意味がない。しかし 今回のオリンピックを見ていても判る通り、開催前の反対は約7割 開催後は賛成約7割である。人様である世間の評価は こうまで変わると気付けば楽である。多くのことは 自分自身の思いこみで出来ていると気付けば、配慮し過ぎてバカになっている自分自身が判る。

たまに子供のいじめを聞いていると、この子にとってはどうだったのだろうと考えることが多い。子どもでもその心をうかがい知るのは難しい。子ども本人でなければ 判断は難しい。「あんたはそうでも あの子は違う」と言うものだ。

最近は判断に迷い 今が楽しければ良いのじゃない! とお茶を濁すことも多い。

現在 ボチボチ生きているので、適当なこと云いながら生きて行ければ良い様に思っている。もう責任ある(問われる)立場にいないのだから・・・さらにお気楽である。

結論を出さずに逃げれる立場である。隠居の立場は居心地の良いものである。

投稿者

おじさん

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