辞書で調べると
1. 薬の調合のときの分量を調節すること。また、その具合。
2. 物事をほどよく調節すること。手加減。
とある。薬には毒薬的要素があり 量の加減次第で薬になり劇薬あるは毒物になる。
これが世の中で 物事を上手く処理するには 欲,愛着,執着心などが薬にあたり これをさじ加減しないと 立場などが危うくなることがある。
中国の古い言葉で超美人を表すとき「傾国の美女」という。歴史家の多くは彼女たちを「毒婦」と称して評価する。
何時 さじ加減を間違うかも知れない。欲も 恋も・・・「さじ加減」を忘れると大変である。
因みに 「奥さん」は超美人とは言い難く、おじさんが考え違いすることは先ずない。
幸せ者である。
感性
料理番組で「塩少々」など、アバウトな量を表現する。
厳密には「塩少々」にも定義があると思いますが、生きる際にはそのアバウトさを表現だと感じなければならないことが多い。まさに「さじ加減」である。
司馬遼太郎の国盗り物語で読んだかと思うが 三好氏に料理人として仕えていた坪内 石斎(つぼうち せきさい)が織田方に捕らえられる。
近習より 料理の腕もよく、作れぬ料理は無いため料理人として召し抱えてはどうかと信長に進言した。
信長は坪内に料理を作らせたが、一口食べて水臭いと激怒し、坪内を即座に処刑しようとした。
坪内はもう一度だけ料理を作り、それが気に入らなければ切腹する旨を伝え、翌日、再び料理を出した。
今度は信長に気に入られ、召し抱えられることになった。前後で料理の味を 田舎風に変えたのである。
芸術作品などは特にそうである。花を生けているのを見ると 花は工業製品ではないので、同じ品種であっても一本づつ個性がある。
開き具合や色の出方 数えたら切りがないほど違う。その個性を取り込んで 花を生ける。
花の様子は時間あるいは光の影響などで 刻一刻、瞬間瞬間に変わっていく。
その中で「これ」と言うのだから大変である。
感性を磨くためには、多くの花に触れてたくさんの造り経験を積むだけしかないように思う。
人は多くの経験,場数を積んだ末に「塩少々」の分量が分かって、要求に「さじ加減」していけるようになると思う。
落語
大阪落語に「さじ加減」があります。講談では「人情さじ加減」として江戸を舞台に演じられます。
大阪の瓦屋町の医者、阿部元渓の倅の年が二十五の元益は真面目一方。寺社を巡るのが唯一の楽しみという変わり者。
ある日、友達の喜助と住吉神社に参った帰りがけに にわか雨に遭う。大社近くの茶屋 加納屋の軒下で雨宿りをしていたが、喜助の誘いで加納屋に上がった。
喜助が芸妓を一人呼ぶと、出て来たのが 住吉小町と呼ばれている十八になるお花。
元益は飲めない酒を酌をされたが、お花に見とれてついガブガブ、正体もなく酔って家に駕籠で送られる始末だ。
それからというもの元益の加納屋通いが始まる。ついには親の金も持ち出す有様で 勘当の身となってしまう。
お花にも会えなくなった元益は 平野町の小さな長屋に入り医者の看板を出す。
元より腕はよく、子どもから年寄り、貧乏人の分け隔てなく診るので大評判となって暮らしも楽になる。
余裕ができると思い出すのは お花のこと、自然と足は住吉さんの方へ向かって加納屋へ。
長くなりそうなので 落語の「まくら」の一節は この辺りで・・・
噺は 裁きを下したお奉行様の「さじ加減」で掬われる(救われる)となる。めでたしめでたし。
落ちは 「さじは 掬うもの」とのことです。
匙を投げる
人を見放す場合などに「匙を投げる」と言います。
「匙を投げる」は、「医者がこれ以上治療法がないとして病人を見放す」「救済や解決の見込みがないとして手を引く」という意味です。
「さじを投げる」とひらがなで書かれることも多く、「匙」はあまり使わない漢字かもしれません。
最後にさじ加減について「程々」と言うことを常に考えておいてください。
人に勝つのも「程々」 儲けるのも「程々」この辺りの「さじ加減」を誤ると 恨みを買ったり 憎まれたりします。
さじの上に載る量は限りがあります。欲張ってはいけません。