現在 造船工業の低迷が目立つ。今年に入り大手三菱重工,三井造船他および独立系 今治造船,常石造船など経営の統廃合が続いている。
おじさんは子供の頃から船が身近にあった。
同級生の親が気帆船(きはんせん)を持っていたり、海岸の一角に造船所とは言えないような 木造船の大工さんが船の修理,建造をしていた。
海側には塩田が広がり、隔てる水路までは家から300m程度であった。
今は塩田も埋め立てられ、塩田どころかその先まで埋め立てられている。
気帆船
夏などは気帆船に乗せてもらって 離れた島に海水浴に行った。
気帆船は昔からの和船の延長で、底が平らであった。その為 浜に乗り上げると結構安定していた。
引き潮で乗り上げ、満ち潮で帰るというようなのんびりとした海水浴であった。
気帆船のエンジンも小さいもので、潮流が進行方向と逆の場合は 船が減速した。場合によっては汐待でアンカーを入れていた。
気帆船はの仕事は 本船と呼ばれる大型船までの塩の運び出しであった。
クレーンも無く、端板(バタイタ)あるいは「あゆみ板」と呼ばれる板1枚を岸から船に渡し、おじさん達が袋に入った塩を気帆船に積み込んでいた。
積み込み方も小学校1年のころは天秤棒に吊り下げ、3年生の頃はフォークリフトにベルトコンベアと見る見る変わる。
小学校5年頃になると 輸送手段がトラックに変わり、気帆船は徐々に廃棄され 港に繋がれたままとなった。
水路の一角には船に付くフナクイムシ退治の際 底板を火で焼くためのスペースがあった。
定期的に行われていたが・・・・そのうちそこで気帆船の解体,焼却が行われて気帆船は姿を消していった。
伝馬船
気帆船の船尾に救命用なのか 伝馬船(てんません)が吊るされていた。
気帆船は処分されていったが、伝馬船は港の一角に留められていた。これが子供の遊び道具となる。
T型の櫓(ろ:船を進めたり方向転換する手動推進器)を操り 港の中を漕いで遊んでいた。
櫓は8の字を描くように操るのだが、タイミングが合わないと船はクルクル回るだけとなる。
中学生などは大きく港の外に出て遠征していた。
塩田の沖は遠浅なので、今では高級品の貝であるタイラギを取って来て、おじさん達に貝柱をご馳走してくれたりした。
サラリーマン時代 社内旅行で佐渡に行った時 たらい船を体験出来る催しがあった。
漕げるかなと挑戦したがクルクル回った。終わって デモの方の漕ぎ方を見ると返しがエラく早かった。
原始的なものほど勘どころの掴み方が難しい。
船大工
「見たがり」の少年であったので、下手すると毎日のように 学校が終わると見に行った。
小型の和船 漁船,伝馬船の修理,建造をしていた。厚い側板を火で炙って曲げていくのだが、進水前には黒焦げなど無かったように仕上げられてた。
気帆船が姿を消す頃 建造することも無くなった。
船作り
納屋の2階の天井裏に小学校の頃作った船が置いている。おじさんの父が保管していたと思う。
家を直す際 大工さんなどから材料であるベニヤ板と角材,ペンキその他一切を貰い 作ったものである。
当時の子供の遊びとして 小船作りが近所で流行った。
その中に在って 数少ない浸水せず 漕いで進み遊んだ船だったので 水路脇に住むおばさんから声を掛けられたりした。
父もそうことを周囲から聞きつけて、嬉しくなって保管したのかと思う。
よく考えれば大工さん達から 資材を潤沢に貰い、組み立てれば 多少の欠陥も隠せる。
金の切れ目が縁の切れ目とは言うけれど、金に糸目を付けず 作ったものという気もします。
まあ結果は浮かんで遊んだので 「良し」と分類したい。
まあ 親子である。
おじさん本当に「見たがり」の「したがり」 そして おじさんの父の「親ばか」丸出しが見えてくる。