おじさんの家は 浄土真宗の本願寺派以外の興正派(香川県で最も多い)が家の宗門である。そんな訳で 子供も死ぬ際に「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われ天国(浄土)に行けるとのことを教えた来たせいか? 嫁と話す時 多少問題があっても「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで天国に行け、救われると話していた。
嫁がそんなのあり?と聞いていたので おじさんは平安時代の浄土信仰から、考え方がそうなってしまったと話した。この時代から鎌倉にかけて 日蓮の悪人正機 源信・法然・親鸞など比叡山で開かれた浄土信仰と他力本願の考え方が、末法の世とされた時代に 日蓮宗・浄土宗・浄土真宗などを生み出し、庶民に受け入れられ流布した結果である。
例えば 平家物語などでは 清盛は高熱で意識不明での死、木曽義仲などは 馬上で射られて即死扱いされている。つまり彼らは「南無阿弥陀仏」と唱えることもなく亡くなり、彼等は地獄に落ちたと暗に描かれている。語るのが 琵琶法師であるから・・なおさら当時の宗教感が入ったとも言える・・と答えた。
まあ おじさんも浄土真宗門徒であるので、それなりに正直に生きて 最後は念仏すれば良いと思っている。僧侶・神職でもなく庶民なので 全て清く正しくと迄は行かないが、人を助け・許し 嘘も方便と流す生き方が出来れば良いと思っている。当然 アコギなことはしない様に・・そして誠実に生きる様に努めている。
親鸞の言葉を書いたとされる歎異抄によれば 「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とあるが、続いて「しかるを世の人、つねに曰く 悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」と書かれていることを忘れてはいけない。世間一般の方も「善人なら往生するのは当たり前」であったと子供には伝えておきたい。常識を外して 一方的に考えてはいけない。数学の命題問題同様 必要・十分条件について考えがないと間違う。しかし この一節が「他力本願」に反するとの ひねくれた考えもあるのだが・・おじさんは 如何な善人と言えども 知らず知らずもあり 完璧な善人などはいないと思っているので、そこまで言うのは間違いと思っている。
今の時代 SNSの如き「映え」優先も理解できるが、その下に流れる不断の努力がなければ 心のポジッションを維持できない。AI時代 人が考えることを忘れては・・真の豊かさを手に入れられない。生きてる世界が豊かであるから・・いろいろ生まれて来ると思う。

親鸞聖人絵像の原形ともいうべきなのが「鏡御影」と「安城の御影」である。前者は七十歳頃の立像、後者は坐像で八十三歳の時とされる。「安城の御影」は畳の前に鹿杖(頭の部分がT字型をした杖)、毛皮の草履、火鉢がおかれている。この絵像について、草履は「猫の皮」、敷皮は「狸皮」などと材質まで記している文章もある。おじさんは 人間誰もが生き続けることは 罪業を伴っていることを忘れてはいけないと体現した姿の表現と思っている。
おじさん・・
俗物として 楽しく生きていたい
そして最後は 南無阿弥陀仏で〆たい