経験上の話なんだが 人は変わるにつれて多くのものを置き忘れないといけない。立場が変わるたびにどんどん増えて行く。そんなことをリセットしてくれるのが、定年というか?おじさんのような隠居になることである。だが 同時に「時」の残酷さを体感することになる。

 人は強制されると抵抗をする方が多いし、自由と言われても戸惑う方も多い。マニュアルと言うかやり方を決められていて仕事するのも・・モチベーションを保てない。人間とはかくも勝手気まま・いい加減なものである。いざ自由になると、どうしたらいいのか分からなくなる。組織の運営方針などに従って暮らすことに慣れ過ぎてしまい、自分の思うままに自由に暮らす方法をいつの間にか見失っている。そんなことは脱サラした時にしばらく味わった。それでも家族を養うためには そんな気分などに浸る時間はない。ジイなので口が悪いが・・現在は幾らか日本が豊かになったのか?・・ネットで見る 若い方へのアドバイス・見方・対応の仕方が甘くなったと理解している。

 社会人になると給料をもらい仕事するので、会社に利益をもたらす仕事に邁進しなければならない。社会人として地雷を踏まないように生活し、やらなければならない仕事あるいは必要なことをだけして暮らす。あまり面白くないことばかりが生活に溢れる。大人の生活は 基本ウクライナのような野戦と言うのか?どこから鉄砲の弾が飛んでくるのか分からないので、常に気配り・頭下げ下げは当たり前となる。

 仕事などに嫌気が差し、やらなければならないこと、必要なことだけして暮らすなど・・考えようもない。無駄に多くのこと・時間を雑務に費やされ、心が疲労して虚しいと言う人間も、いざ自由になると・・どうしたらいいのか分からなくなることも多い。

 実を言えば結婚も似ている。二人だけならあまり感じないが、子供が出来れば変わってくる。奥さんを見てきて感じたことなのだが、女性は肉体の中で子供を育て そして産む苦しみにさらされているので・・正直に言えば 子供を産まない男性からすればスタートラインが違う。従って育児を当然のことのような言い方をしてくるが・・男は女を完全に理解することは難しい。おじさんはそれも仕方ないと思っている。

時は残酷

 人間は適応するため物事を処理する為 色々置いていくと言うか?捨てていく。経験からすれば過剰適応気味であることは確かである。最近になって「再び」と考えたりするが、音楽するのを考えたが、もはや耳の感度が落ちギターのチューニングさえ時間が掛かり、指も動かない。そんな!と思っても時間は残酷である。昔 過剰適応しなければ良かったと改めて思う。

 模型を作ろうとすれば 老眼が進行していること、筆の微妙な動かしも決まらない。バイクを弄っていても同様である。ステレオの管球アンプを作ろうとしても・・・やる前から結果も見えたので諦めた。もう少し前に始めとけばよかったかなと思っても・・しかし 現役の頃は都合よく時間などは取れなかったように思う。

 最近は 家庭菜園とブログ書くぐらいしか ポジティブな活動をしていない。もう少し置いてきたものを復活させたいが、時の流れに流されたことを悟るばかりである。しかしその総括が 子供が大学に行き、幾らかでも子供のやりたいことを助けてやれたので、良かったと思っている。

いずれ子供も同じことになるだろうと思っている。「因果は巡る糸車 善し悪しともに巡り果てぬる」良い意味での繰り返しの因果応報かと推察・納得している。

成れの果ても またよし! 古人曰く

先生 生徒の成れの果て

投稿者

おじさん

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