神社から御札を預かり、自治会内の皆様に声を掛けて 区ごとに数をまとめて頂きお配りしている。正直不定期の訪問を受けるので、手間が掛かる。これも仕方ないことと諦めている。そして神社から別に厄年のご祈祷のお知らせと言うか? ぶっちゃけて言えば 営業の紙も頂いたので、御札を渡すついでに区長さんに配布をお願いしている。しかし預かりものの御札である以上 置き場所も机の上として、下手に床などに置けないので・・管理に困っています。

 神社も出来るだけの独立採算の努力をして頂かないと成り立たない時代である。次々に近隣の神社の神主つまり宮司の跡継ぎがいない状況になって来ている。おじさんが氏子である総社神社も まじかで見ていると、その引き継いでいく困難さが見えて来る。例えば祭礼一つを取り上げても、祭りの始まりに穢れを取り除き、その後儀式を補助する神主と、主催し全体を取り仕切る神主 最低2人が必要となる。現在の宮司は3人姉妹なので祭りなどがある度に、姉妹のどちらかが手伝いに入っている。長女は普通の家庭に嫁いでいるので、時間を都合しているようである。三女は弁護士のキャリア女性である。二人姉妹いずれかが宮司の補助として儀式を執り行う。なお宮司にも男女2人の子供がいるので 取り敢えずは大丈夫だろうとは思っている。経済的には参拝者からだけでは・・収支の確保は難しい。そんな神社のお賽銭を頂こうとする不届き者もいるのが 氏子としての悩みの種である。今日も七五三祝いの家族を見つけて・・頑張って頂きたいと心で声援した。でも 古い人間なので 夕方15時のお参りはないだろうと思い、また子供のラメがピカピカで・・時代の流れを感じた。

 総社神社自体は日本国各所にあり 創立された理由が、平安時代に国司が赴任した際 一国の神社を全て廻ることをしなくても済むように建立されたものである。従て 国府の隣町などに置かれるのが通例である。名称には讃岐総社との意味合いがある。しかし そんな歴史はとうに埋もれたが、江戸幕府から讃岐半国を松平家が領することが定められ、土器川を境に坂出市・宇多津町は松平領国となった。江戸時代には 藩の庇護を受けて神紋に三つ葉葵を使うようになった。明治以降は 地元の神社としてのみ機能している。以前 氏子の数を調べたのだが 林田町の全体の人口が約5千人 氏子自治会の構成から言って その70%超えが氏子の数であり 約4千人である。近年は高齢化が進み祭りの主体となる年齢層が減っていることは否めない。

 一宮と総社 いずれが格式が上かと問われると返事に窮してしまう。一宮は 延喜式と呼ばれる律令制になるまでに全国にあった神様の神名帳と呼ぶべきもので、登録されていれば昔からある神社と分かるだけであり、全てが大社ではない。全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された神社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。それに比べて総社は設立由来が 国司都合を考えた「官制神社」としての 性格を持つ。 令制では 官幣神社は 神祇官(じんぎかん)から幣帛(へいはく 今で言えば補助金)を捧げられた、格式の高い一定の神社であり、 明治以降から第二次世界大戦終結までの間は 宮内省から幣帛を捧げられた神社である。楠木正成の湊川神社などは明治からの官幣神社である。官制と官幣の定義により どっちが上とは おじさんは考えていない。

 色々 思うことはあるが・・12月15日まで 自治会のお札配布について 協力する予定ですので 町内の皆様にご協力をお願いしています。総社神社も主祭神が天照大御神ですので、先日から 伊勢神宮のお木曳に参加しないか?とお誘いを受けておりますが、老々介護の身の上 そうも「はいはい」とは返事できません。もう既に木曽では横に並んだヒノキが2本選定され、祈禱後 夏には古式の如く斧による伐採を受けたそうで・・伊勢では早くも 式年遷宮の儀式が始まっているようです。

 最期に 古い御札などは どんと焼きで燃やしますので、授かった神社やお寺に直接持参し、境内の納札所へ納めるのが最も丁寧な方法です。神社が遠ければ 近所の神社で構いません。なお 普通ゴミとして出すのはマナー違反になりますのでお気をつけください。

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おじさん

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