孫が帰った昼に うどんを食べに行ったのだが 帰り道に奥さんが「あの工場は何?」というので 説明せずにその場所まで連れて行き、工場入口の名板を見せた。そこから帰るついでに 別の建物の前まで連れて行き これはさっき食べたうどん屋さんの工場と教えた。「えー」と言われたが 小麦粉商売 原価が低いので 当たれば急成長すると伝える。

 まあ 時間もあり ついでと言うことで、奥さんの友人の家を別方向から見れる場所まで連れて行った。以前 彼女の母親が亡くなり、奥さんがお悔やみに出掛けた際 道路を結構複雑に曲がり訪ねたと聞いていた。話し振りから その家を逆の方向から見たことが無いと想像していた。知人と連れだって行っただけで、その位置を再確認していない。別に位置確認していれば 連れて行った空き地に接する細い道を通れば 上下4車線道から100mもないことを知ってたはずである。友人宅が見える空き地に車を止めて「あそこ!」で帰った返事は「へーー」。結局 訪ねた後の確認などしていなかったのを やっぱりと再確認した。

 何事も一方から考えただけ・見ただけでは 俯瞰していないので 物事を判断するのは難しいことを理解しておかないといけない。普段の生活で天気予報を見て 昼から夕方からと判断はしやすい。その程度は誰もがやるが、家・地域などに俯瞰する目線を持つことは・・常に関心を持っていないとだめである。おじさんは親が不動産屋だったので 家・土地などを見る時は 周囲360度にわたり、色々な方向から見る癖が付いているので 習慣的に身に着けただけなのだが・・・便利である。

 そんな訳で 「人は見たいものしか見ない」「裏側を見なくても納得してる」ということが自然だと思っている。しかし ある地点・時点・年齢までに 気付いていないと判断力のある見方は手に入らない。

 芸人などの言う「ヨイショ」も同様で される側にならないと何がキーポイントか分からない。人は する側される側どちらも経験しておかないと ヨイショの要点・大事なことが分からない。総じて言えるのは 質問を出されて答えに窮しても 結論から逆思考で質問・前提に到達出来るか否かを考える癖を付けておくと柔らかい頭になり易いのと同じである。

 歳を取り 今さら考え込むことも減ったので、適当に暮せればよい。若い頃 受援勉強方法などで悩んでいると言う話を友人から聞いたが、対処策は自分で方法論的な手法・考え方を手に入れるしかない。瞬間的に反応するためには 一方的に教えられる・覚えるだけでは身に付かない。 生き方は様々であり 自身が生き抜くすべは その都度知れば良い。自己満足・納得をどこに置くのかとのことは常に考えないと、低いレベルで納得して それ以上に考えが広がらないのが普通である。

常に自分は正しいのか?

 問い続けるだけである

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おじさん

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