孫のネットアルバム写真に 子供のコメントが付いていた。ニコ!と 撮影前に言うと両手の人差し指でほっぺのえくぼを差すように持って行くと書いていた。そりゃ 子供達か?爺さん婆さんなどが付けた癖だろと思った。子供は やってみたら褒めそやされ、多分それが一番よいことだと理解した経験と結果からのことであろうと思った。

 人生 上手く間違い 結果として上手く育つこともあるので、あながち 他のことを強制することも無いと思い暮している。バリエーションを増やすように持って行ければ 良いのではとも思っている。人間褒められて伸びるのが良い。「まだまだ」と否定的に言われながらするよりも・・「出来た出来た」のようにステップアップしていく方が良い。

 そんなことから人との巡り合い・出会いなどは子供にとって「運」のようなものだと思って来た。出会うタイプにより振られる幅が変わるし、タイミングでも変わってしまう。人の個性などはお互いが感じる要素・レベルなどが異なり、する側の目的と受け取る側の意味も異なる場合も多く発生する。良く言われることに「がんばっている人に がんばってと声を掛けてはいけない」と言うことと同様の意味である。相手が精神的に参っているような場合 頑張った結果などが目指した結果と違っているのに・・そこに「がんばれ」が 「がんばっているのに状態」に追い打ちを掛けて、マイナスの影響を及ぼす。

 そんな訳で 人の成長と人間関係の相互作用に 多くに正解はないと思い暮らしている。負けた悔しさも人を成長させるが、いつも負けないと両肘を張って 他人に迷惑を掛けたり、煙たがられたりする。過ぎたるは・・とは常に考えてやらないといけない。そんなことから「中庸」と言うことが尊重される。

 ばあ様との関係もよく似てる。我が家には手すりがない状態で推移しているのだが、おじさんは ばあ様が求めるまでそのままと思っている。少しの無理でも こなせるなら ばあ様のトレーニングと思っている。出来ることを少しも損なうことなく負荷をかける。インターバルトレーニングのような偶に負荷をかけて能力を維持することに通じると思っている。余計な手すりなどを付けて まだ残っている力をスポイルしてはいけない。本人が無理と・・求めた時に助ける方針である。

 勘違いの生まれるのは 人によりけりなことではあるが・・新たなニコニコな場面を見つけて 指摘して褒めて新しいバージョンを増やせば良い。ジイは孫達の様子を見ていて 勘違いでも何とか良い方向に向いてくれ!とだけ祈っています。

たかが・・ジイの孫とも思ってます