キスが良い?と考えたが・・おじさんの年齢ではハードルは高い。それでも セックスよりはハードルは低い。若ければそんなことも考えないで、お互いが思うままに出来るスキンシップ出来るだろうが・・イタリア人などのようにハグ・キスの習慣もないので難しい。日本人の言う「人の目もはばからず」がある。ここまで書いたところで、米国人の文化人類学者ルース・ベネディクト「菊と刀」を思い出した。話が毎度の如くズレる恐れはあるが・・何事も心を素直に考えたい。
第二次大戦直後に 既存文献や文化資料、米国にいる日本人への聞き取りなどを基に、一度も来日せぬまま執筆した日本文化論である。 「義理と人情」「恥の文化と罪の文化」をはじめ、その後の日本人論の源流となったとされる。戦後70年以上過ぎ、日本人の行動様式は何が変わり、何が変わっていないのか・・。
内面的(原本がそうなのであるが 個人的には?)な罪の自覚(キリスト教など)に基づく欧米流の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」は他人の批評を物差しにするとされる。こればかりに拘り 考えを進めると、面倒になると感覚的に思うので、義理と人情について少しだけ考える。
封建制度の中で長く漬かった日本人は 主君から受けた恩恵は、受けた分だけ返さなければならない。「義理を返す」または「義理を果たす」ことが社会生活の基本であると考えて来た。しかし人間とは出来たもので、こればかりに固執すると精神的に重くなるので・・人情に対して寛容なスタイルも同時に発揮して来た。温泉・銭湯で「裸の付き合い」「袖すり合うのも多少の縁」とばかりに寛容さを加えていった。もう一つ興味深いのは、同性愛を「伝統的な『人情』の一部分」であり、「武士や僧侶のような、高位の人びとの公認の楽しみ」と認めていたが、明治以降には キリスト教などから罰するべきものとされた。現在の同性愛などの問題を考えると 日本の人情は意外に魅力的な普遍性を備えて来るのかもしれない。
ともあれ日本では 肉の快楽を楽しむことは罪ではない。キリスト教など罰の文化には原罪があるが、日本では人間堕落との教えを ほとんど説かない。但し「人情」も「義理」にぶつかる場合には、道を「義理」に譲らなければならない決断は要求される。
従って中国古典の「金瓶梅」のごとき酒池肉林までは いかないが・・男と女の組み合わせについて、イレギュラー・ノーマルであっても 性的行為には寛容である。おじさん自身はノーマルなので 女性である奥さんとの性的接触はあたり前としか捉えていない。
そう考えて来ると「歳を取って性的接触をしない要素は、「恥の文化」に根付き 他人の批評を物差しにすることによる可能性が高い。今から50年前には おじさんの年齢ではほとんどの方が亡くなっていた。子供の当時を思い出しても爺さん婆さん達の比べれば、今のおじさん達とは違い 腰が曲がった姿勢だったと思い出す。現在そのような姿となっている方を見ることもあまりないが、ほぼ15歳は年上である。
今も頭の中を過るのが、戦後 グアム島で隠れ住んでいたところを 発見された横井正一旧日本陸軍兵士の帰国第一声で「恥ずかしながら 横井正一・・」と始めたことである。日本人の心の深いところに流れている。
それにしても こんなアホなテーマに考えを巡らすことが許され・出来る70歳手前とは、今の世は 良い世である。色々考えても 昔からの考える基準を少しずらして考えてみる方が良いと思える。そうすることが 心にも体にも良いと思われる。
エロおやじになるのは嫌だけど・・せめて手前ぐらいには なりたい。