現地で確認することが 大事なのか? とおじさん最近不思議に思っている。先日 店舗の背景に富士山が見えるローソンに外国人が押し寄せるとのニュースをモーニングショーで見たのだが、そんな検証自撮りすることのどこが楽しいのかわからず・・わけわかめ状態である。人のネタの再検証しているだけというお目出度さを思わないのか不思議である。

 おじさんはカメラなど持たずぶらぶらして ふと見たこと・気づいたことに・・そんな!バカな!などと ふと感じる驚き・感動そしてそのタイミング。そんなシーンを心に留めるのが楽しい。誰も気づかないところで俺だけ見た・知ってると思えれば、写真・記録などどうでも良い。人に見せるために探しているんじゃない。自身のためだけのというものが楽しいのである。写真より心に刻むことが大事と思っている。

 写真を見てそこに出掛けて何枚写真を撮ろうが、オリジナルには及ばない。おじさんは お茶に例えて「二番煎じ」としてあまり重きを置かない。一番とは一気に格が下がる。そんなオリジナリティーの下がるものを喜んで撮りに行くことは評価しない。低質な自己満足のように思っている。だが お金儲けのネタ・方法としてはフロンティアはリスクが高く、2番手のメリットは理解している。全てフロンティア・オリジナルが良いとは思っていない。

 先日 Tik Tokでダンスを挙げているのを見たが・・オリジナリティーは殆どなく如何に共演者が スタイリッシュ美女でシンクロしているかということの評価に思えて・・それだけじゃあね!としか思えない。また最終的には お姉ちゃんがいかにスタイルがよく美人かなど 少しの差を競い合っているだけのように思えた。僅差を追い求めることは厳しい競争となる。「一将功成りて万骨枯る」の世界観が溢れる。

 こんなことで選ばれても、1年も過ぎれば次の人間が出てくる。世阿弥の風姿花伝にあるとおり、「花」は年とともに移ろい行く。どこかで違う価値観を見つけないと・・順序良く 猫も杓子も みじめになっていくのが通例である。

 最後に 年寄りの見解なので若者の感性とは違ってくる。おじさん達から見れば、バブルの時代を 好きに追いかけていた若い頃を思い出す。定まった味方 つまり定見というべきものを持たず、流行を追いかけていた ミーハーなおじさん達も変わらないように思う。

 それ故 偉そうに書いているが・・どこか木っ端恥ずかしい感もある。矢張り仕方ないことかもしれない。

猫も杓子も

 慣用的には「だれもかれも」という意味で使われる。猫の手が神主などが神事で持つ「釈氏(しゃくし)」に形が似ていることから「猫の手も借りたい」などと同じように「だれでも」と転じた言葉と覚えている。釈氏をご飯を寄そう「しゃもじ」まで展開する絵まであるのに驚くが・・変化するのも言葉である。

 猫がオリジナルで釈氏(しゃくし)は「ようなもの」となる。この世にはオリジナルではなく「ようなもの」が世にあふれ、「ようなもの」で満足する人が多いと理解できる。たまにオリジナルに違ったものが映り込み、より楽しいことも起きるだろうが・・偶然である。

 江ノ電踏切などスラムダンクなどの聖地巡礼とも違う。聖地巡礼は 最初からオリジナルとの相違・確認を求める行為であるが、インスタの「バエ写真」とは目的が異なる。インスタで見れたり、ネットに情報があるなら、日本に来てまで確認作業をすることないじゃないと思う。まさに日本に来たとの証拠写真を残して個人のみが記録するなら理解も出来るが・・皆様にお披露目すべき オリジナリティーはない行動であると思う。

 京都 鴨川の等間隔アベックと変わらない。鴨川のほとりなら迷惑もかけないが、人の迷惑顧みず、旅の恥はかき捨てとばかり・・住民の何倍もの観光客が押し掛け好き勝手・・碌なもんじゃない。外国から来てようが、田舎者はこれだから・・いただけない。

 写真の件同様に 富士登山でも外国人登山客が装備なしで、お気楽登山と遭難が話題になっている。最後はヘリで助けてくれると思うらしいが・・そんなに甘くはないようである。止めるというか辞めさせるには・・何人か犠牲者が出るか?途轍もない請求をされたとの情報流布しかないかもしれない。

 考えているうちに「昭和元禄 猿芝居」なる言葉を思い出した。「令和元禄」と言い換えたくなった。平和である。そういえば近日ザードを聞いていないが・・と鼻歌交じりで車の中で歌いながら帰ろう。

投稿者

おじさん

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です