おじさんは チキンラーメンが子供の頃からあった世代である。中学生時代 銀行員の父を持つ友人の家で勉強などをしていて遅くなると、チキンラーメンが出されたことがあった。当時は大変贅沢な夜食であった。値段までは覚えていないが100円以下であったのは確実である。

 ラーメンの勃興期であり 袋麵が色々各地から出て来る。ある意味 戦国の時代にも似た群雄割拠の時代でもあった。そんな時代だったので 博多マルタイ棒ラーメンなどと同様に各地の乾麺・ソーメン屋さんから出されていたものもあった。現在香川県内で 讃岐丸一うどんチェーンを営んでいる中尾食品なども棒ラーメンを販売していた。その為 子供の頃のインスタントラーメンと言えば中尾食品の2人分の入った棒ラーメンか「いとめん」の2人分のデカ麺を使ったラーメンが食卓に並んだ。

 当時は 初任給が1万円前後の時代である。おじさんの姉などで給料が2倍になり2万円を超えると騒ぎ立てていいたのが おじさん18歳の頃・・またカップヌードルの初期の頃 120円出せば 自販機でお湯を注いでくれるものがあった。フェリー乗り場にあり待合でいる時、よく食べていたことを思い出す。うどん・そばの自販機と並んで設置されており その時の気分で替えていた。そんな時 うどんは袋入りの箸、カップヌードルは袋入りの小さなフォークであったが・・一方がしばしば無くなっており、よく隣の自販機から頂いていた思い出がある。

 チキンラーメンそしてカップヌードルと青春の味であるが、今なお販売されている。子供の頃から慣れ親しんだ商品に感謝している。学生・独身時代 チキンラーメンを袋の中で割り、水と一緒に半分だけ食べながら 金のない時を過ごした思い出などもある・・おかげさまで今日まで生きて来れました。感謝感謝の商品です。

容器

 おじさんが独身寮生活時代 チキンラーメンの袋めんを作っている際の容器は 食べて終わった後の別ブランドのカップ麺の容器を利用していた。お湯を注いでも熱の逃げるのが少ないため、蓋なしでもうまく作れるのである。カップヌードルの容器は麵を割らないと出来ないので 他社製品のものを利用した。そしてお湯の投入ラインも同じで使えた。

 数回使用すると内側の表面がデコボコになり・・変なものが溶け出して 体に悪いかもと思いながらも使用していたが、後年そうではないことが分かった。車・バイクで出かけてビパークする際は、カップラーメンとチキンラーメンを組み合わせるなどしていた。

 普通のどんぶりとコーヒーのソーサを利用して作っていたことも思い出す。こちらはやはりどんぶりの熱の逃げる量が多いため 蓋をしなければならないことで生まれた知恵である。しかし始めた理由は 袋の写真のごとき生卵を入れて表面が半熟と見える卵の完成状態を作る目的であった。卵ポケットは出来たが・・卵が動かないだけであり、電子レンジと併用を試すなど・・如何にするべきか工夫を重ねていた。分かった基本は 卵は常温・湯は沸きたてである。まあどうでもよいこともやって見て 検証するのが大事である。

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おじさん

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