先日食事をしながらTVを見ていた際、東京タワーを建てたとび職の方のインタビューなどが流れていた。最近も東京タワーはまだまだ人気があるようで、いわゆる映えスポットが若い方・外国人観光客を引き付けているようである。

実はおじさん東京タワーに昇ったことがない。嫌と言うほど何度も 下からは見上げているが・・・昇った経験がない。なお 売店には立ち寄ったことはある。

若い頃は六本木界隈で飲んだり食ったりしても、帰る際のタクシーが中々捕まらないので 東京タワー付近まで歩いたりした。地下鉄の営業時間であれば問題ないが・・若い頃は・・ついつい長くなる。だらだらとした坂道を登りながらタクシーが捕まえやすいところまで歩くのが常だった。ライトアップはされていたが、今ほどデザインアップして見せるしろものでもなかった。

おじさん不覚にもその話を奥さんがいるところでしてしまい・・・まあ独身の頃だから構わないのだが・・その後はTVに集中した。

記録映像で命綱なしでの作業、現在と違い高力ボルトのない時代のため赤熱させたリベットを投げて受け止め穴に入れてのカシメ作業などを見ながら、すごい時代であったと改めて思った。自らの誕生日を考えても 昭和は遥かに過ぎた時代と思える。

危険が隣り合わせで高賃金を稼ぎ出していたとび職・・おじさんの若い頃から、危険でキツイが 若いうちなら同世代では高額に稼げると魅力であったと思う。やはり親方になれないとキツイ様で、同級生でとび職になったがパットせず ペンキ屋に転職してたのがいた。飲んだ帰りの公園で そいつが鉄棒に親指と人差し指でつまんだだけで ぶら下るところを見せつけられたことを今も覚えている。いざ緊急時に備えて体を鍛えていること半端ではなかった。

時代は変われど・・やはりどこにでも素直に生きられず、苦労の種は尽きない。

戦車

朝鮮戦争の時 アメリカの破損した戦車の多くが日本に運ばれ修理された。しかし破損が厳しいものはそのままスクラップとして日本国内で売られ 溶かされて鉄鋼資材となっていった。装甲に使用する為 少量添加された金属クロム・モリブデンなどを含むので一般鋼材としては高強度であった。そんな再生された鉄を混入利用して鋼材を作った戦後の復興期であった。(今も鉄鋼業は発生二酸化炭素の為 高炉稼働を抑えて同じような製品作りに移管中である。時代の変遷に合わせて繰り返えされることも多い)

1958年 総工費80億円 工事期間は18ヶ月をかけ おじさん3歳の時完工した。それ以来スカイツリーが出来るまでTV・ラジオなどの送信塔として活躍し、今なおスカイツリーのバックアップとして活躍している。おじさんは戦後復興佳境のモニュメントでとなったように思え、東京タワー完工から 日本の流れが変わっていったように思う。

都市伝説のような話があり、前述のとおり戦車を溶かして作ったとのことで、民間業者が破損した戦車M4・M47を落札・解体し東京タワーを作る型鋼つまり鉄骨になりました。使用箇所は大展望台以上の部分とされています。なおこの型鋼強度の高さから、エッフェル塔よりも鉄の使用量がへり、シンプルな外観となりました。

当時は日本の製鉄技術が十分に発達しておらず、より質のいい鉄が必要でした。そこで注目されたのがアメリカ軍の戦車。朝鮮戦争で壊れてしまったものを持ち帰って修理に出すよりも新しいものを作ったほうが効率がいいということで。いらなくなった戦車は日本の業者に大量に売却され、そのうちのおよそ90台、3000t分を解体業者が購入し、東京タワーに使ったと言われています。

投稿者

おじさん

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