ロシアのウクライナでのしぶとい戦いぶりを見ていると、子供の頃 爺さんから聞いたセリフを思い出した。爺さんからは 八連隊も日清戦争ではダメダメだったが、ロシアとの戦いでは活躍したことを聞かされた。今思えば10歳ほどの小僧に、なにを話したかったのだろうと思う。
昔から第四師団 大阪駐留の八連隊と京都駐留の九連隊は、戦い下手の弱兵と名高かった。明治初期の西南戦争など明治維新前後からの評価だった。
都会的と言うか?要領がよくて才が立つ社会に暮らせばそうなるとのことであったと思っている。
爺さんから聞いた後 父にこの言葉を問うと、人間 賢(かしこ)過ぎても見切りが早くダメとのことを話していた。その為 覚悟とか考え方を爺さんが言おうとしたと思う事にした。
それに比べて九州の兵は守りが苦手で、勇ましく突撃していく。また雪国・東北の兵は守らせると粘って我慢強いというのが、第二次大戦中の軍隊内の評価であったそうである。
子供の頃にそんな話を聞いたことがあったので、北国のロシア兵は我慢強く、日本で言えば 雪国・東北の兵ようなと思えたのである。
しかしながら ウクライナ・戦前の満州などでのロシア兵士の行動を見ていれば、人の迷惑顧みず女性を強姦するやら、電化製品などのモノを奪うやら・・・「がめつい」など 我慢強いに加えて民度が低く、質(たち)が悪い。またプーチン大統領をはじめに政治家などは傲岸不遜(ごうがんふそん)に事実と逆なことを言い切る。大したものである。従って 友人になるのは一考を要すると考えてしまう。
伝統
第八連隊の行動で有名なのはノモンハン事件である。昭和14年 満州国とモンゴル人民共和国での国境紛争である。
以前書いたがこの事件 日本の死傷者が多いため、日本は一方的な負けと思っていた。昨年ソ連時代の軍事機密が明らかになり、ロシアの方が死傷者は多いことが分かった。
なおこの戦い 日本軍は歩兵の肉迫白兵戦が主となり、近代化されたソ連の戦車・重砲など機械化戦が主となる。このあたりの実戦の反省がなされていれば、後年の第二次大戦ではもっと変わったように思われる。しかし当時の日本軍中枢は負けたと思い、部隊上層部を閑職に移動し国民から隠した。
現在 ロシアとウクライナの戦いでゲラシモフ・ショイグが指揮を執ってるのと同じで、関東軍司令部がアホやから・・・と言うようなことが言われたが、「岡目八目(おかめはちもく)」な事柄であるとだけ記しておく、旧日本軍・ソ連軍 共に犠牲者を厭わない軍隊のようである。
この戦いで ノモンハン出動を命じられた第八連隊は命令直後から急病人・あるいは行軍脱落者が急増する。その為 仙台師団の部隊が4日で移動した距離を1週間かけて移動するなどした。ノモンハンに到着した時は既に休戦直後であった。
その為「またも負けたか八連隊」との「からかい」は この後も収まらなかった。
余談であるが 現在司馬遼太郎の「覇王の家」を「どうする家康」に重ねて読んでいるが、大阪人である司馬遼太郎の「レッテル張り」が面白い。家康・家臣などの人柄・思考パターンなどを「三河人」と一言で済ます。最後には江戸時代以来 日本人が幾らか三河人化したとまで持ってくる。
これは大阪人の特徴かもしれないと思っている。簡単にレッテル張りし過ぎるように思えてならない。ノモンハン事件の顛末を見ていると、三河人のレッテルが使えないと思われる。
なお これを書きながら・・立憲民主が思い浮かんだのは・・内緒にしようとしたが・・書いてしまう。
またも負けたか 立憲民主!