言わずと知れた有名な能役者・作者であった世阿弥(ぜあみ)の風姿花伝(ふうしかでん)のフレーズである。現代語訳すれば、「隠すということの中にこそ、感動がある」とのことを述べている。世阿弥の考えた芸術論である。

「秘密にして隠すから花となる、隠さないと花にはならない」と直訳した部分だけ見ると、「何でも表に出すより控えめに慎ましやかな方が美しい」という意味になるが、風姿花伝の中ではさらに・・現代語訳で進めると

芸の流派には秘事があり、一般に公開しないから価値が上がる。公開するとさほど意味が無くなるものである。秘事がたいした物ではないと思う人は、本当の効果を知らないのである。観客に思いも寄らぬ感動を与えることこそが「花」であると・・こんな感じかと思います。

『風姿花伝』は 代々秘伝書として守られ門外不出でしたが、明治時代になってからは一般の方でも読むことが許されるようになりました。

おじさんはこの風姿花伝が世阿弥不遇時代を経た後も 追記編纂されたことに意味があると思っています。

世阿弥は若くして足利義満の後援・庇護を得て、一気に大和四座と呼ばれる能グループ中のトップスターになりました。今でいえば AKBなどのセンターに デビュー直後一気に抜擢されたようなものです。そして不動のセンターとして時代の流れを駆け抜けた。ところが足利義満の没した後は その流れが一気に変わる。金閣から銀閣へと繋がる変遷の時代であった。3代将軍義満死後は不遇の時代を迎えた。晩年直前には佐渡に流されることも経験している。

そんな境遇を過ごしながら、今日まで続く能の芸術性を飛躍的に高めたことへの評価はゆるぎない。変わりゆく中で 変わらぬ感動(もの)を作くろうと、頑張り続けたようで・・人間 かくありたいと思うおじさんです。

生い立ちと生き方

幼少期の世阿弥は、東大寺の有力僧、経弁(きょうべん)などについて英才教育を受けたようです。世阿弥が12歳のときに観阿弥(かんあみ)は世阿弥を伴って京都の今熊野(いまくまの)で猿楽能を催します。3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)はその時に初めて能を見て以後、観阿弥・世阿弥父子を後援するようになりました。その為 以降は当時の文化人であった二条良基(にじょうよしもと)をはじめ、公家や武将からも引き立てられるようになる。

1384年(至徳元年)に観阿弥が没した後は、近江猿楽の比叡座の犬王(いぬおう)(?~1413)が足利義満から最も高く評価されるようになります。世阿弥は犬王ほどの評価には及ばなかったものの、犬王の天女舞を大和猿楽に取り入れるなどの工夫をし、1399年[応永6年]に義満の後援のもと京都一条竹ヶ鼻で3日間の勧進猿楽を興行したことなどが知られています。

義満没後、将軍に就いた足利義持(よしもち 1386~1428)は猿楽より田楽を好み、田楽新座の増阿弥(ぞうあみ)を評価します。しかし 世阿弥も義持の批評眼に耐えうる能を生み出すことにつとめ、義持が実権を持っていた時代にも、多くのすぐれた能を作りました。

1422年(応永29年)頃に出家して観世大夫(観世座の統率者)の地位を息子の元雅(もとまさ)に譲った後は、『三道』や『花鏡』などの能楽論を息子たちに伝えており、後継者の育成にも尽力しました。

室町幕府8代将軍足利義政(1436~1490)の時代に栄えた東山文化。現在に至る簡素で洗練された趣を持ち、これは 現在では日本人特有の美意識とされます。

義持が亡くなり、音阿弥(おんあみ 世阿弥の甥)をひいきにする足利義教(よしのり)が将軍になると、世阿弥は能を演じる機会を奪われ、不遇な時代を迎えます。さらに1432年(永享4年)には子供であった元雅に先立たれ、晩年直前には佐渡に流されました。その後、世阿弥を目の敵にしていた6代将軍・義教が暗殺され、世阿弥は京都に戻ります。翌年の嘉吉3年(1443年) 80歳にして世阿弥は一生を終えました。

蛇足

おじさん基本的に世阿弥が好きなんですが・・・秘すれば花以上に好きな言葉は

住する所なきを、まず花と知るべし。

常に居所さえも変化し続けなければ・・いけないことを教えてくれる。常に求め続けるものは かくありたいと教えてくれていると思っている。もちろん おじさんは 実生活での住まいのない事の厳しさは分かっているので、世阿弥の覚悟のほどが理解できる。世阿弥自身が川原乞食(かわらこじき)同様と、芸能人としての覚悟を示したと思っている。常にギリギリ・・そんな覚悟を持てよ!と言っているようで・・

投稿者

おじさん

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