おじさん世代なので、物事を了解した時は「合点承知之助 がってんしょうちのすけ」とガッテンをしばしば伝えるのに使う。あるは「合点承知」と短く使う。
一応 江戸っ子の言い方とされるが 落語の中などによく出てくるので、おじさん世代には通じる話である。心得た、任せておけ、といった意味である。「合点」「承知」はいずれも、納得・承知・承諾したさまを意味する表現で、「承知の助」は「承知」の語調を整えて人名らしく言った「しゃれ」である。
本日は落語を聴くにあたり 知っていれば「通」と思われるネタを本日は一席。
岡場所
岡場所(おかばしょ)は、江戸時代に江戸において、唯一幕府公認の遊女屋(女郎屋)を集めた遊廓である吉原に対して、それ以外の、非公認の私娼屋が集まった遊郭のことである。落語・時代劇の中では多く登場する言葉である。
吉原は千住の湿原に土盛りをしていたので、おじさんはそれが転じて遊郭を「岡場所」と呼ばれ、吉原と言わず同様だと話のたとえ方と思っていた。人によれば 最盛期には江戸には 61の岡場所があり,そのうち 30ヵ所が隅田川の近くにあった。吉原も同様であるが、 客は舟で遊びに行く。 舟から見れば 川土手の岡であるため岡場所と云われたとの説もある。
現在のニアンスと違い遊郭はキャバクラ的要素が大きく、野暮じゃモテないと言うようにそれなりの回数通って・・と言うのが大半で、現代と同じで金を使わないとの傾向は似ている。従って 落語などでは「長屋の若いのが岡場所に入りびたり」と落語家は振って話しを進めていく。「入りびたる」ことも大切と何気に伝える。
また 落語「船徳」 遊びすぎて勘当された「若旦那の徳さん」が船宿の二階で居候している。船頭になるからみんなに紹介してくれと言う。呼ばれた若い衆は親方に小言を言われると思い・・・となる。
ここまで来れば 遊び過ぎた若旦那が なぜ船宿に転がり込むかも、お気付きになる方は多いと思う。
当時 隅田川のチョキ船(3、4人ほど乗れる櫓を付けた小舟)はタクシーのようなものであったとお考えいただくのが良い。船宿は今でいえばタクシーの営業所。岡場所に行く若旦那は常連で、船宿に通えばこその流れである。また隅田川の浅草近辺まで満潮時は潮が入るので、川の流速がないのも、チョキ船の活躍出来た原因である。
桟橋
今も隅田川は交通に利用されている。水上バスである。今は上流側の桟橋は浅草となる。ここは江戸時代とあまり変わらないが、江戸時代には更に上流 隅田川から山谷堀(現在は埋め立てられ影もない)の入口を入ると直ぐに架かる最初の橋、今戸橋際にあった桟橋を大桟橋と言ったそうである。吉原通いの山谷船の発着所で、ここから上がった遊客は吉原大門を目指して日本堤(吉原土手)をいそいそと歩いたと言われる。
この桟橋を「大桟橋」というのも、吉原の入り口の門が「大門」と呼ばれたのと同様かもしれない。
逆に江戸中心街での乗り場は.柳橋界隈と思われる。両国橋の西側、神田川が合流する、その際に架かった橋であり、その北側には柳橋と言う町があり、柳橋花柳界で金持ちの江戸っ子は遊んだ。また浅草橋までに船着き場も多く利用したに違いない。
船徳の噺を追いかけても 船は大川(隅田川)に出る口は神田川の河口となっている。
吾妻橋の一つ下流に架かっている駒形橋の西詰めに小さなお堂が有り、これを駒形堂。ここに大川に突き出た桟橋が有った。桟橋から上がると、並木町、雷門、浅草寺にと繋がる入り口に当たります。江戸切り絵図「本所絵図」嘉永(1863)版の駒形堂。地図の中に大川に突きだした桟橋がある。それ故 先程来の吉原の大桟橋が違い、大桟橋と言われた桟橋はこれかもしれません。
歴史
歴史は変わっていくので面白い。おじさん落語などが好きなので、話の背景の風景を思い浮かべるので、地図と言うか?全体の配置が気になり追いかけてしまう。時代の変遷のため 現在の配置から辿ることが出来ない場合も多い。
たまに「東京を江戸の古地図で歩く」と題された「大江戸今昔マップ」(新人物往来社)と「江戸切絵図」などを広げ・・妄想する。好きな時間を持てることに感謝しつつ、隠居生活を楽しんでいる。
これでお金がもう少しあって、苦労ないなら申し分ないと言える・・と悟り開けず 俗物な自身に反省しながらも ないなら・ないなりに楽しく過ごす。