散歩帰りに近所のコンビニに立ち寄ったところ、入口に「肉まん20円引き」とある。お茶を求め入ったのだが、おじさんは自分に素直な性格なので、おばちゃん店員に「どれが一番いい?」と聞いた。「○○」と言ったのでそれと言って、小腹に入れる軽い気持ちで注文した。袋に入れてくれたので、手にしていたお茶ボトルを差し出した。中で食べますと聞かれたので、「外で」と答えた。最近は消費税厳密運用のためかフードコートで食べると加算される。そう言えば以前あった外ベンチが撤去されて久しい。
バーコード決済して、家に帰り食べた。若ければ 夕方店舗の前に集まる高校生同様食べれば、温かく一番おいしいと思うが、この歳で車の中なら良いが・・・人目もはばからず立ち食いとなると違ってくる。奥さんに言わせると「変」と直ぐ答えが返って来る。
暖かいお茶を店先で一口飲んで、「変」とは何であろうか?心に移ろい行くよしなしごと同様に考え出す。同時にこの寒い時期 消費税を支払って店内で食べるのが正解か? そう言えばと考え出すとキリがない。暇人の所以である。お茶も一口で済ませポケットに入れた。ジャンバーの両ポケットが暖かい。
果物
毎年年末には数少ない友人に、大粒イチゴかリンゴを送るのであるが、昨年末より発送が1月7日にずれ込んでしまった。いつも頼む福岡の農家さんより 今年のイチゴはシーズン最初から、数が少なく大きさも小さいと聞かされ、クリスマス・正月のケーキ屋さんなどの大口納品が間に合ってないと聞いていた。
そうゆう訳で 延び延びになりながら、 1月7日にいつもの通りイチゴを送り終わった。
大粒イチゴの品薄の為 姉妹である姪のところに送ろうとしたが、発送が1週間ズレてしまう事態も起きた。お陰で送ってない姪から 御礼メールが先に来るという椿事も起きた。
その間に孫からは「イチゴ食べたい」の大合唱・・・季節と農家さんの事情には逆らえません。
またリンゴは果実が小さめなので、長野の農家さんが「フジ」は蜜の入りも悪いので、小さめだけど「紅ほっぺ」ならと勧めてくれた。お試しとお願いしたところ「紅ほっぺ」に部分的蜜が入っていた。長野でも別の産地では通常通りとも聞き、地域差が大きい様である。
昨年は気象がおかしい変な1年であったかと思う。今年はオミクロン株が早期に収まり、いつもの通り過ごせるように祈念している。
変と乱
日本における歴史的争いをザ~と考えると
645年 大化の改新
810年 薬子の乱
939年 関東地方で朝廷に対し反旗を翻した「平将門の乱」。
1582年 重臣の明智光秀が織田信長に対し「下克上」といわれる謀反を起こした
「本能寺の変」
1614年と1625年 豊臣秀吉死後の豊臣軍と天下統一を確立する
その後 幕府の徳川軍の政権を争った。
「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」(当時は「大阪」でなく「大坂」)。
1877年 西郷隆盛が引き起こした国内最後の内戦といわれる「西南の役」。
1931年〜1932年 満州における関東軍と中国軍が戦闘した「満州事変」。
その後、戦争、世界大戦へと突入していくのだが、今更気付いた点がある。そもそも乱、変、陣、役、事変の区別・違いとは何なのだろうか?
「乱」は、朝廷や幕府の政権に対し大規模な反乱を起こしたが、鎮圧され、政権獲得に失敗した争い。
「変」は、政権が倒れたり変革に成功した争い。
「陣」は、権力者による命令のもと、その傘下の勢力が義務的に参集した戦い。
城を攻めたり、局地的な争い。
「役」は、国が国境を守るために兵士たちを徴用する兵役、戦役的な意味を含めた戦い。
「事変」は、宣戦布告無しに開戦した通常明治以降の武力衝突。
しかし、どれもあくまでも大まかな説明による使い分けで、必ずしも的確に当てはまらない。
「西南の役」は「西南戦争」ともいわれたり、「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」を合わせて「大坂の役」とも呼ばれる。
1600年の毛利輝元、石田三成を中心とした西軍と徳川家康の東軍の戦闘は、「関ヶ原の戦い」、「関ヶ原の合戦」と教科書には表記されている。
1860年の「桜田門外の変」はいわゆるクーデターなのだが、「桜田事変」とも呼ばれることはあまりない。
さらに「戦争」とは宣戦布告した戦いという解釈が多いようだが、アメリカが介入した「ベトナム戦争」も、2003年の「イラク戦争」も正式には宣戦布告していない。後者は大量破壊兵器を除去が大義名分だ。
ちなみに日本国憲法第9条によって、国際間の解決手段としての紛争を放棄しているので日本は宣戦布告できない。でも攻められたら・・・最低限「自衛」を認めないとまでは書いてない。憲法に「国の、交戦権これを認めない」とダメを押すから論理がおかしくなる。攻撃されて 自衛すれば交戦は発生するのは当たり前。論理性がおかしいとしか言えない。「国」の前に対称の記載・制限がないのが原因である。
「右のほほを打たれたら左のほほを」とのキリスト教の宗教観に近いと、おじさんは考えている。だが反対的記述である「復讐するは我にあり」との「報いは神が為す」との記述・意志が抜けている。日本国憲法の文面も同様 断片をつなぎ過ぎおかしくなった典型と思う。聖書も「マタイ」と「新約聖書 ローマ人への手紙 」となるので致し方ないのかもしれない。神が判断・懲罰を下すので、人間が自ら復讐してはいけないということである。
キリスト教の根本は「耐え忍び許す」ことがあるのかもしれない。だがキリスト教徒の多いヨーロッパでの血生臭い出来事を見ると疑問が付いてしまう。
そう言えば 過日のチョン・ドゥファン(全斗煥)元大統領死亡時のコメント を見ると、韓国のキリスト教の割合が3割近いにも関わらず、「許せない」が主流を占めていた。日本も同じに扱われている経過を考えると、詫びても罪に服しても無駄なようである。韓国民には「許す」考えはほとんどないとしか思えない。
日本人では亡くなれば仏様、死者に鞭打つ事は控えて当然である。基本的な心情が日韓では異なる。韓国には おじさんの思うようなキリスト教的宗教観などもないようなので、特段の対応はしない方が良いと分かる。
なんのかんのと言いながら、おじさんの希望は歴史から学び、みんなで楽しく笑い合う平和な世界である。
しかし当初の肉まん同様 些細なことが影響して、温かく美味しい状態で味わえない。