昨日 バイト先の店長が某回転寿司で一家全員の会食があるので早めに出勤して欲しいと言われた。「いいですよ」と言う事でいつもより20分程早めに出勤した。店長は初婚であり奥さんはバツイチ子連れのため、おじさんに「父親にとって私の立場はどんなもの?」と聞いて来た。「一言で言えば 馬の骨」と言ったが店長には判らなかった。そうか 馬の骨とは死語なんだと思った次第である。当然ながら、時間も無くそれ以上の詳しい説明もしなかった。
新春家族そろっての会食であるが、店長一人 血が繋がらない家族である。そんな時一人浮いてしまうのが娘の旦那である。野生の感か?行きたくないと言いながら、タイムカードよろしくね!とタイマーをセットして退社した。まあ 嫁の実家に行く旦那の気持ち・気分はそんなものと分かっている。順送りの事と思います。
そんな訳でおじさんも適当にすることにしています。何せ 同じ針のムシロに座った経験がありますので、父ちゃんは自身の経験上 それなりに「婿」を解っています。
国語辞典
馬の骨という意味は 身元の確かでない者をののしると言うか、軽く見ている場合に使う言葉である。そして深い付き合いはない場合に使われる。極端に書けば 人によっては「可愛い娘を手籠めにした悪い奴」が婿である。直接的に血縁もないので「馬の骨」と見做せる。
従って江戸っ子風に言えば「娘が惚れたから仕方なく許したが、誰がどこの馬の骨とも判らねえ奴に・・」という具合かと思います。
なお多少付き合いなどがあれば「御里が知れる(おさとがしれる)」を使ったりする。この意味は 言葉遣いやしぐさにより、人の生まれや育ちがわかることを指す。総括的言い方であるが、これも余り品の良い言葉使いではない。
そう言えば同様の「箸の上げ下ろしが気に食わない」などもある。箸を上げたり下ろしたりするような、こまかな一挙一動についてまで口やかましく言う場合に用いる。
以上の言葉 落語などを聞いていると飛び出すことはよくあるが、現代ではあまり通じる言葉ではない。
野ざらし
落語「野ざらし」時間枠が限られてきた時代でもあり、時代背景・町の風景も異なるので、昔ながらの「落ち(おち)」まで演じられることはほとんどない。落語も時代と伴に変化している。
回向したのが馬の骨だったか!と言うのが 落ちとなるが、これが現代では判らない。そこで途中での釣り針をとってしまうところで下げる(落ちの別の言い方)ことも多い。
少し詳しく説明すると、昔 太鼓にはよく馬の皮が貼られていました。そして浅草の新町には太鼓屋がたくさんありました。聞く側がこれを知っていることが 落ちの前提です。日本の芸能には「暗黙の了解」が沢山あり、知らぬもの・了解しない者は無粋とされる。歌舞伎の「黒子」見えても見えないお約束と言えばお分かりいただけるか?
昔の落ちは 訪ねて来た幽霊に「新朝(しんちょう)という幇間(たいこ)です」と言われ、「新町の太鼓」と取り違え、 馬(の皮)を連想させる話であった。 現在では お座敷遊びもほとんど無く、「幇間持ち」もいない。それ故 2重3重にめぐらした言葉遊びも出来ないので、途中で落として終わる形になった。
なお上方落語でも 野ざらしから変化したのか?三代目桂米朝が「骨つり」として別の話に仕上げている。下げは馬の骨ではなく・・・まずは聴いてのお楽しみ。
今は亡きご両人、おじさん今もファンとして聞かせていただいてます。