おじさんの地方には うるち米などの粉を粘土のように土台骨に肉付けし、「だんご馬」を作る。前足を高く上げた跳ね馬の形を模したものがほとんどであり、他の形は見たことが無い。おじさんも子供の頃は毎年のように用意されていた。但し大きさが異なる。後述するデカいものの記憶はないが、毎年 用意されていたのは高さ20cm程度のものであった。
子供の頃 自宅に土台となる木と5mm以上の角鉄棒とを組み合わせたものがあった。高さは80cm近いものであった。小学生の頃、従兄に必要と言うことで従兄の家に行き、更に従兄の家から親類に渡っていったようである。土台におじさんの名前が墨書されていたが・・・今もあるのかは判らない。一応 おじさんは長男と言うことで 最初は特大のものが用意されたらしいとは分かっている。
五月人形のカブト飾りと一緒に飾るのが通例であった。その為おじさんの地方では「馬節句」と称していた。九月半ばの「八朔(はっさく)の節句」が名前を変えた行事である。
なお 子供の日は 五月人形(カブト飾り)と一緒に飾るのは「張り子のトラ」が普通であった。
長男
現在は兄弟平等になっているが 長男(世継ぎ)の誕生は昔は祝い事とされた。旧暦の八月朔日(ついたち)、だんごの馬を作って男の子の無事な成長を願う風習が残っている。
おじさんの息子も 高さは80cm近いものを用意したが、だんごではなくワタで作って頂いた。従って現在も解体されず自宅で眠っている。ネズミさんにやられてないと良いが?未確認である。
通常のだんご馬の 材料は米の粉、もち米、少しの砂糖。水を加えながら粉練りした後、約二十分せいろで蒸し、杵(きね)でつき上げた粘土状のだんごとする。鉄と木の骨組みに作っただんごをつけ 形を作っていく。
ガラス玉の目にたてがみ、しっぽを付け、歯もしっかり描いている。紅白の手綱と五色の帯できれいに飾ると完成となる。
飾が終れば解体し、砂糖醤油(さとうじょうゆ)をつけて焼いたり、きな粉をつけて安倍川(あべかわ)にして食べるが通例であった。子供の頃は 飾り終った翌日には 多少酸っぱく傷んでいるようで食べることは無かった。それ故 おじさんは食べ物を粗末にしないということで、だんごではなくワタで作って頂いた。
地域
同級生から聞いた範囲では 高松松平藩と丸亀京極藩でだんご馬の存在が分かれるようである。
だんご馬の起源は江戸初期讃岐一国を支配した生駒藩の馬術の達人 曲垣平九郎に因んでいると言われる。生駒が讃岐一国を支配していた頃(1634年)家臣の曲垣平九郎が、将軍家光から命じられた 愛宕山の石段を馬でかけあがって、梅花を折り取ってくることに成功した。「寛永(かんえい)三馬術」と賞賛を博し時の人となった。今も東京港区の愛宕神社には186段の石段は残っている。なお 生駒藩の取り潰しは1640年となっている。丸亀市の案内などに書かれていることを確認すると改易年代に触れていない点があり、我田引水的と思う内容である。なお 生駒家改易後 曲垣平九郎は浪人となったが 京極家が抱えたこともないと記憶している。
有人に聞いた範囲では 風習が残る大半が西讃地区であり旧京極藩領である。おじさんの地区は松平藩と京極藩の境界に近いので、この風習が残っているのかと思う。現在丸亀市内を流れる土器川が藩の境界であった。土器川 昔は暴れ川だったようで、江戸時代前期と現在は大きく流路が異なる。従って生駒改易直後の土器川位置を特定することは困難と見ている。おじさん 川の流路変遷調査は個人的自由研究のテーマでもあり、分かれば再度書き加えたい。
最後に「だんご馬」に話を戻すが、子供たちが健やかに育ちますようにと願いを込めた行事として、郷土で長く続くと良いと思う。因みに孫については「誕生以来 ダメ」と子供より釘を刺されておりますし、県外居住ですので控える予定です。正直フルサイズでしたら何処に収納できるのかと・・・納屋でも無ければ 後が困るのが見えてきます。現代では中々難しいことです。