昨日 久々に長文の投稿を頂いた。おじさんは 原則ブログは自由な発言の場と思っている。自由に投稿頂いた内容にはコメントして、1月間程度は保持して消去させて頂くことにしている。
当然なものとしてクレームは頂いたが、中でも 善意で行われる自治会活動・ボランティアにご批判を浴びた。無給での奉仕活動に対するご意見とそれが弊害を発生させるなどを述べられていたが・・・どういった方だろうと想像している。
自分にない思考過程を想像するのも、年取ったためか楽しい。同時に思う「頑張れ 若いの!」 人生は短いと解かり出したのでそう思う。
経験
昔 大学のボランティアクラブの方から噺家がクレームを入れられているのを横で見たことがある。横で聞いていて 噺家が身体の障害箇所を著わす伝統的言葉を使うので、差別的用語であるとの批判が中心であった。
当時おじさん某大学落語研究会(落研)に出入りして遊んでいたので、おじさん 会話を横で聞く機会があった。そして言葉をどうとるか、解釈するかは個人の考えと思い、違和感を持った覚えがある。師匠はどうこう云わなかったが、おじさんは伝統芸能なので、時代が変えてくれると伝えた。従って現状で替えたいなら、「放送局じゃないの」と言って話を終わらせた。同じ大学の奴がいたので、何で?と問い詰めた結果、兄弟に目の障害のある方がいると分かり、申し入れる心情も 理解出来たが、「それだけでは」と伝えた。
そう言えばおじさんが若い頃、配管の縁切りに使う板を盲板(めくらいた)と呼んでいたが、現在では仕切板(しきりいた)と呼ぶ。英語ではブラインドプレートからパーテーションプレートと変わったようである。
なお海外の製品サイトではブラインドプレートが残っている。パーテーションプレートは日本語訳を求めた際出て来るので、海外での差別的用語としての取り扱いに差があると見込める。よくこのような日本と外国の差異を一方的に評価・指摘し、ミーツー的 独善的判断が横行するのも多いので注意している。言いたいことが多すぎて、チョット話がズレた。御免!
今回の投稿にも 思うことは自由であり、発言は許される。投稿文書を見ていて「裁判」だとか限定するような言葉が並びおじさんとしてはツッコミどころがあったが、反論すべきではないと思った。投稿者の感性に叶うことと考えた。所謂 他者の発言に対するリスペクトである。
おじさん就職したばかりの頃 所属する上司が北海道出身で「やってみれ!」と言われ、責任を持って実行すること あるいは自分で考え 体で覚え実行することの大切さを思った。
おじさんは古い時代の人間であり、面と向かって批判はする。しかし顔を出さないで、特定されない状態でやり合うことは いけないと思う。鎌倉時代は戦争でも名を名乗り撃ち合うが、戦国時代は最初に鉄砲を打ち掛け、名を名乗らず乱戦となる。おじさんは鎌倉時代の戦い方が男として好きである。
その為 SNSなどに無理な参加はしていない。お互い分かった相手だけとしている。100人の知らない奴からの評価よりも、自分一人あるいは友人一人からの「いいね」に価値がある。
ボランティア
社会学的に見るとボランティアはキリスト教におけるチャーチスト運動が関わってくる。人によっては少し左翼的見方もある。学問的なアプローチは以下の通りとなると学生時代に、勉強した覚えはあるが・・・多くは忘れた! また久々に学問的に申し上げるので・・・失言しそうである。
西洋と日本における「公共」の歴史を踏まえると、「公共」は「共同体的公共性」と「市民的公共性」の二つに区別される。
共同体的公共性とは、「共同体ないしそれに関するものごと」という意味である。市民的公共性とは、「自由な討論」と「公開性(越境性)」が確保し作るものである。
従て 市民的公共性は、社会正義ないし政治的諸価値が討論される場合には「政治的公共性」となる。ボランティア活動にとって、その活動についての自由な討論や広報活動は、本質的な構成要素であるので、ボランティアは、市民的公共性(とりわけ政治的公共性)の一部を構成することになる。逆に 市民的公共性の実現のためには、ボランティアの活動が不可欠である。
この付近から社会学の学問的には「自治会論」を始めるべきと思う。投稿いただいた方が更に研究され、さらに意見が進化されることを願い書いてしまった。他意はない。
だが普段 こんな面倒くさいことを言っていてはどうにもならない。暮らしに困るし、助けるべき方に手を伸ばせなくなる。
勿論 おじさんは俗物&小市民なので 同様に学問的に突っ込もうと思わない。従って近所の親父達と和気あいあい 自己満足的に奉仕活動している。後は ビール飲んでバタンキューと日々過ごすのが性に合っている。