日本の会社は勿論 社会を渡り歩くには「空気」が読めないと上手く行かないことが多い。おじさん昔 「日本人とユダヤ人」書いたとされる山本七平氏の「空気の研究」を読むのを中断したままなことを思い出した。実はおじさんは「ワガママタイプ」なので空気を読んでも、気に食わない場合は「空気を読めない人」として行動する。悪いことは おじさんが空気が読めない鈍感ものと誘導したほうが、憎まれる度合いは少ないからである。分からなければ、「仕方ない奴」として 往々にして許される。「空気」を分かってやれば 批判がより厳しくなる。皆が「空気」を読むなら・・・逆に利用すれば良いと思って生きて来た。経験から 下手に「空気」を読んでも 批判が無くなることはない。それ故 人間の行動でいけないことは「空気読みすぎ」「過剰適応」と思い生きている。
山本七平
旧日本軍の首脳部について だれがどうして決めたのかなど追いかける。そこに「空気ありき」に到達する。山本氏は『「空気」の研究』で「空気」について次のように述べている。
「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かもしれない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから」
また「空気」について「空気」のことを端的に「臨在感的把握」と言い換えています。
「臨在的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化」としていきます。「感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態」に人々がなることによって「空気」の支配が起きる。
おじさんレベルは ここまで「高邁にこじらせて考える」と頭痛薬が必要となりますので、「空気は暗黙の前提条件」と思っています。当然と思うことは 人間の考え方を拘束するものと思っています。設計などをしていると人の仕事を見て、「何でこうしたの」と思うことが多い。考えを変えれば ブレークスルーするのにと思うことがあり、また後日足りなかった自分にも 気付き反省する。
水を差す
山本氏は『「空気」の研究』で「水を差す」ことについても次のように見解を述べられている。
今振りかえれば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気づくであろう。従って「英雄」は必ずしも「平和主義者」だったわけではなく、〝主義”はこの行為とは無関係であって不思議でない。「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29にとどかない」という「事実」を口にしただけである。
「水を差す」というのは、言い換えれば、各人が置かれている「情況」を改めて語るということに納めていく。
哲学的過ぎて大変と思い、おじさん本を読み進めるのが面倒となって、この付近で休止したままである。大上段に構えすぎと思う。これを童話の「裸の王様」の話に置き換えれば分かり易い。何も知らない子供が見た儘を言えば・・・・と言うことは発言することを許されるタイプは子供であると気付く。何処とはなく許されるのは 「半人前」「純真」が発言できるタイプであることと判る。
暗黙の了解を切り捨てることが出来るタイプの想像がつくと進化出来る。釈迦に説法ですが、「空気」に水を差すのもタイミングもあるので、上手くやらないとアホをみます。
普段からどう生きるか?こんな時に備えてキャラクター設定しておくのも人生です。無理に大人になろうとしないのも生き方です。中途半端が最もいけないと分かる。